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2011年6月6日月曜日

原発関連、大学の人々、ピンからキリまで

@@@やまねこ通信94@@@

東電原発事故後、原子力関連の専門家を含んで、大学で生きる人々、
生きていた人々が、いったい何を考えているのか。
水準の順に、トップ、ボトム、メディオークル(中位)と並べていた
ところ、どん底ボトムが飛び込んできた。
少し長めですが、最後まで何とか走り読みしてくださいますように。

トップ:鷲田清一(阪大学長)
「大学人よ!産学連携を反省しよう!」のタイトルに惹かれて珍しく
も、やまねこ『サンデー毎日』を買う。
阪神大震災の経験者で「臨床哲学」を標榜する鷲田先生が筆者、阪大
初の文系学長である。

今日の理工系大学から産学連携を取ったら、一体何が残るのだろう?
文科省の科研費であれ、企業の研究費であれ、理工系大学はカネを取
ってくる先生がエライ先生という価値基準の明瞭な世界である。

今日の研究では巨大装置が必要だから多額のカネが必要。カネがなか
ったら研究が出来ない。一方で知的所有権と絡んで莫大な利益を生む
可能性がある。

これが産学連携の土壌である。モデルとなっている米国の大学では外
部資金が導入できなくなったら教授は引退することをやまねこは聞い
ている。日本ではそれほど苛烈な話はまだない模様。

鷲田学長は教員たちが「同業者との業績競争や産学連携にばかり必死」
であることを指摘。
阪大のような国立の理工系の有名大学でこの現実をどのように改める
ことができるのだろう。
来年の科研費獲得額で、阪大がドカーンと転落するのだろうか。
やまねこ注目しなくては。

けれど鷲田学長の指摘の目玉は、次のところにありそうだ。
「市民」の視点が欠けている大学に「市民」を取り戻そうという。
「専門家は狭い分野のことは知っているけれど、それ以外は何も知ら
ない「特殊な素人」です。それを自覚して「成熟した市民」であろう
としなければ専門家だけで科学行政を担うのは危ういことです。国立
大学はナショナルなレベルの貢献を求められるがゆえに、市民の思い
をおろそかにしてはなりません」。

「心ある研究者は昔から、科学技術がはらむリスクを研究し発表して
きました。原発もその危険を訴え続ける研究者はいます。でも圧倒的
に少数派です」。

今回の原発事故で明らかになったのは、巨大技術が必要とする研究費、
それを支える電力会社の研究費贈与、その中で、市民としての責任を
感じない研究者が、「ナショナルな貢献」を独占するところであった。 

さすが文系の鷲田先生、少数派の研究者に対する目配りを忘れない。
力会社から膨大な予算を受けていた研究者に比較して、原発の危険
を訴える研究者は、どれほどの研究費を受けてきたのだろうか。
それに大学内での評価はどうだったのか。

京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さんら「熊内6人衆」と呼ばれる
原発に批判的な研究者たちが、精密な研究を重ねているのにどうして
教授にならず助教なのか。
阪大にそうしたケースはないのだろうか。

鷲田学長は学内の人事を徹底して洗う意欲があるのだろうか。さらに
国大協で、教員の資格を洗いなおす提案をする覚悟はあるのだろうか。

哲学、倫理学の専門家として雑誌で発言することと、国立大の学長と
しての行動は異なるはずである。
学内行政の責任者としてどれだけ実行できるか、今後注目しよう。

ボトム・有馬朗人・元東大学長
さて同じころ、毎日新聞62日の読者投稿欄に寄せられた投稿にやま
ねこ眼をとめた。

「有馬・元学長発言に違和感」(無職67歳男性、福岡県宗像市)

まるごと引用しよう。
56日付「巨大地震の衝撃 日本よ!」で「自然界に『想定外』当然
」という見出しが眼にとまった。原子核物理学者である有馬朗人・元
東大学長へのインタビュー記事だ。
1200年前の貞観地震の大津波も「東日本大震災後の今でこそ」知られ
ているとし、津波による原発被害を警告した学者などの少数意見を排
除する動きはなかったと答えた。続けて、DNAなど未知に挑む科学
者も人であり「人間の想像力の不足は起こりうる。自然の中には想定
外がたくさんある」との趣旨の話をした。私は違和感を抱いた。
 今回の震災、特に原発事故で省みるべき点は何か。相対性理論やD
NA解明という難題ではない。津波の高さをどう想定するかという、
謙虚に自然に向き合い最悪の事態も考慮するという姿勢の問題である。
彼の言葉から自然の畏怖が感じられなかったのは残念だ。想定外とは
郷を追われた人の胸中のはずである・軽々しく口にできる言葉では
ない」。以上引用。

投稿者は重要な指摘をしている。
これこそ、「狭い分野のことは知っているけれど、それ以外は何も知
らない「特殊な素人」である専門家」の面目躍如の最たるものではな
いか。

津波による原発被害を警告した学者などの少数意見を排除する動き
はなかった」との発言は、原子炉の検査と称して図面を見るだけで済
ませていた癒着構造を思わせる発言ではないか。

「想定外」との言葉は現在、利益至上主義のため、津波の警告を無視
したことを言い逃れる東電が盛んに発している言葉である。

有馬朗人という人は、そのあたりが見えないほどに、市民や社会から
遠い所にいるのだろうか。

ところが、元東大学長として国策企業をかばうというナショナルな
レベルの貢献」(鷲田氏)の身振りを今なお自動的にしてしまうとこ
ろがまことに面白いとやまねこ思った。
昔取った杵柄というべきか。

たしか廃人ならぬ俳人であったと記憶する有馬朗人氏、原子核物理学
であったのか。
有馬朗人氏が個人的にそのように考えるのだったら、新聞の投稿欄に
(無職、男性)の肩書で意見を寄せるといいのではないか。
たぶん採用されないだろうけれど。

メディオークル(中位)
東大原子力専攻学生たちの意識水準

原子力工学科の学生がフォーラムを開いた。ところが主な話題は、
事故故経緯や放射線が健康に及ぼす影響などの知識を紹介すること
だったという。

会場から、日本における原発の必要性についての質問が投げられたと
ころ、登場の学生たちの姿勢がこわばった。
この時期、当然予想される質問である。ろくに準備していなかったと
いうのは、学生たちが「守られた立場」にあることを示すのだろうか。

ところが今回のフォーラムにかかわった約20人の3、4年生のなか
で、大学院で原子力専攻を決めた学生はいないという。だったら、学
生自身、原子力に対して疑問を抱いているのに他ならないではないか。

この疑問を誰にでも分かる言葉で語り、市民と対話できたらいいのに
ね。ところが「専門家」養成機関にいても、「市民」としては不十分
であることを、五月祭しっかり示してしまった。

東電福島原発事故以後、東大大学院原子力関連の教授たちがメディア
に頻出して「解説」し、根本的疑問をぬらりくらりとかわしていたこ
とを、われわれは決して忘れないだろう。
教授たちは教育者として日ごろ学生に対してどんな教育をしていたの
だろう。いわゆる「安全神話」に対する疑問など討議されることはな
かったのだろうか。やまねこはすごぶる疑問に思う。

以下、少し長めであるけれど、時代の移り変わりの中での原子力工学
科の変遷がよく分かるのでほぼ全部を引用いたします。

毎日新聞ザ・特集:悩む原子力専攻学生 62
「東大生と学ぶ原子力」フォーラムを東京大学五月祭の初日企画。
工学部有志約20人。旧原子力工学科の流れをくむシステム創成学科
環境・エネルギーシステムコース(学年定員48人)の3、4年生たち。

1960年に創設された原子力工学科時代から脈々と業界リーダーを輩
出してきた。福島の事故後、有名になった武藤栄・東京電力副社長や近
藤駿介・原子力委員長らはOBだ。また、原子力安全委員会の班目春樹
委員長は原子力工学科(当時)で教えてきた。とかく閉鎖的と批判され
る「原子力村」だが、東大の原子力学徒OBが中核を担っている、とい
うのが大方の見方だ。

100人以上の聴衆が大教室を埋めた。学生5人が登壇し、事故経緯や
放射線が健康に及ぼす影響、火力や太陽光など代替エネルギーについて、
あらかじめ準備したスライドを映しながら説明していった。5人は「一
人一人がエネルギーを自分の問題として考えてほしいのです」と締めく
くった。

最後に4列目に座っていた横浜市の会社員(49)が質問に立ち、こう
切り出した。「原子力は長期的に日本のためになるかどうか。ご意見を
お持ちであればお聞かせ願いたい」。空気の流れが少し変わった。

 壇上の学生たちが顔を見合わせる。押し出されるようにしてマイクを
握った杉山さんは「私が大事だと思っているのは、0か100か、とい
う強い議論に押されることなく、総合的に今後のあり方を考えていくこ
とです」と答えた。緊張した様子が見て取れた。これで時間切れだった。

原子力の専門教育が始まって半世紀余。「この間、さまざまな変遷があ
った」と話すのは、フォーラムに来ていた東大大学院工学系研究科総合
研究機構長の寺井隆幸教授(57)。杉山さんらの先輩に当たる。「シ
ステム創成学科は、原子力だけでなくエネルギー全般について広く学ん
でいます。その前身の原子力工学科時代は、原子力だけを勉強してきた
のですが……」

学科再編のきっかけは、スリーマイル島(79年)、チェルノブイリ
(86年)という、二つの原発事故の影響だったという。

東大の原子力工学科は93年、「システム量子工学科」に再編され、
2000年には再び他学科と統合され、「システム創成学科」として生
まれ変わった。門外漢が見たら、これが原子力関係の学問とは想像でき
ないかもしれない。学問の名前から「原子力」の文字を消し去ることで、
何やら物事の本質を見えにくくしているよう。

 こうした動きは東大だけでない。京大など他の旧帝大でも相前後して、
開設されていた原子力・原子核工学科などといった学科名から「原子力」
「原子核」といった文字が消えた。

「それでも」と寺井教授は言葉を継いだ。「5年ほど前から、世界的エ
コエネルギーの潮流に乗って原子力が見直され始め、『原子力ルネサン
ス』なんて呼ばれていたのですよ。やっと風向きが変わってきたと思っ
ていたところに、今回の福島の事故が水を差してしまった。

主に米国メーカーの基本設計でつくられた、福島第1原発は津波の想定
が甘かったのです。女川原発は被災した住民が避難してきたというのに
……」と悔やむ。言葉の端々から、米国依存の設計ゆえに壊滅的な事故
につながった--と言っているふうにも聞こえた。

一方、学生たちは原子力をどうみるのか。フォーラムで原子力を論じた
杉山さんは「卒論では原発の安全評価など、大学院は電気系かなあ」と、
意外なことを口にする。そして「僕だけじゃないんですよ。原子力国際
専攻を目指していた同級生たちも迷っているようです」と打ち明ける。
詳しい理由は明かさなかったが、福島の事故が影を落としているのは間
違いあるまい。

 同級生の田儀(たぎ)和浩さん(21)は「がんの治療に役立つ放射
線や陽子線の研究をしたいと考えています。事故を受けて放射線が健康
に及ぼす影響に関心を持つようになりました」と話す。

 業界も学生の原子力離れに危機感を募らせる。業界団体の日本原子力
産業協会は学生を対象に就職説明会を開催している。担当の政策推進部
統括リーダーの木藤啓子さんは「昨年は来場者がぐんと増えたのですが、
正直、今年はやってみないと分からない状況です」と顔を曇らせた。

昨年12月に東京と大阪で開催した説明会には前年比7割増の1903
人が参加した。今年は東電が募集を見送り、浜岡原発を停止した中部電
力もどうなるか分からないという。

 原子力産業の人材不足は日本だけの問題ではない。国際原子力機関
(IAEA)が04年にフランス原子力庁のサクレー研究所で初開催し
た人材育成に関する国際会議。核燃料サイクル開発機構企画部長として
派遣された森久起さん(62)=現・原子力研究バックエンド推進セン
ター専務理事=は指摘する。「先進国の原子力産業は本格的なスタート
から40年が経過して世代交代期に入っていますが、若手の人材確保が
国際的な課題になっています」。ドイツなどの脱原発の動きも影響して
いるようだ。
 
福島の事故では、東電の工程表通りに収束したとしても原子炉処理まで
の長いプロセスと放射性廃棄物の回収、処理、管理という課題が横たわ
る。これを解決できるのは原発の専門家しかいない。

 森さんは話す。「まだまだ学問としての原子力工学は必要なのです。
日本の原子力が試練に立たされているなか、若い学究者の英知が求めら
れているのです」
 
今回のフォーラムにかかわった約20人の3、4年生のなかで、大学院
で原子力専攻を決めた学生はいないという。


どん底・ボトム:斑目委員長

このブログの作成中に、せいたかせんせから、次の情報がもたらされた。

6/5
(日)「NHKスペシャル事故はなぜ深刻化したのか」で、3/11以後の
5日間に何が起きていたかを知り、複数のキーパーソンの証言を聞いた
。全貌をつかむには遠いが、分かったことがあった。

チグハグで後手後手の対策のことは知っていた。が、想像していたより、
その度合がすごかった。情けない、こんな素人集団が私たちの命を握っ
ていたのか・・。

水素爆発を防げなかった。地震翌日に1号機で、14日には3号機で。
地震翌日からずっと、空中に大量・多種の放射性物質がまき散らされ
続けた。

「建物が水素爆発するとは思わなかった」「あの時点で水素爆発を予測
した人は少なかった」(斑目委員長)。斑目氏は、水素爆発は絶対起き
ないと、官邸に請け合っていたのだ。

「水素爆発が起きない」理由は、ガスは格納容器に入って建屋にたまる
ことはないと思っていたからだって。「あの時は分からなかった、自分
には実力がなかったんです」と言う。だったら専門家に、今からでもよ
いから、「わかる人」に託せ!

「3月11日以降に起きたことを全部ナシにしたい。そうできるなら私は
何でもする」って泣き言をいう斑目氏・・。「全部ナシにしたい」
と言ってよいのは被災者たちで、あなたではないよ。
「なんでもする」というなら今から命がけで「専門家」を要所につけろ。
良心的で有能な専門家は日本にたくさんいるのだから。

やまねこ、残念ながら番組を見ていない。けれどせいたかせんせの怒り
がよくわかるから同意見。
「全部ナシにしたい」との表現は、同氏が精神的に幼児的な発達段階に
いることの証明ではないか。厳しい現実に直面できないことを示してい
る。気持ちとしてはわからないではない。できれば責任から逃れたいと
の気持ちがありありだ。

鷲田阪大学長は語った。「成熟した市民」であろうとしなければ専門家
だけで科学行政を担うのは危ういことです。国立大学はナショナルなレ
ベルの貢献を求められるがゆえに、市民の思いをおろそかにしてはなり
ません」。

勉強出来ていい大学に入ったら、何もしなくても許される日本社会。
東大教授たちはそのまま年取った人たちなのだろうか。こんな精神的レ
ベルの人々が、重大な技術の責任者だったとは。

巨大科学を担う大学を監視する市民の機関が必要なのではないだろうか
とやまねこには最近、しきりに思われてならない。

うらおもて・やまねこでした

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