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2011年6月12日日曜日

「みんなひとつ」ではなく「てんでんこ」「おやしらず、こしらず」を選びたい

@@@@やまねこ通信97@@@@ 

東北・三陸地方には「津波てんでんこ」ということばがある。「津波
のときは家族のことは気にせず、てんでんばらばらになって逃げろ」
という教えである。本日の『信毎新聞』に掲載された「津波てんでん
こ」を使った授業の記事が面白かった。松本・高綱中2年生、曽山正子
先生の国語授業である。 

「津波てんでんこ」を学校で教わった小中学生が率先して高台へ避難し、
大人の避難も促したとの信毎紙410日付け記事を共有し生徒たちがグ
ループ研究した。
1896年明治三陸津波で、助け合おうとして共倒れになった親子が多か
ったことから得た教訓」とする津波研究家山下文男さんの著書を紹介し
たグループもあった。

曽山先生が生徒たちに尋ねた。
「じゃあ、『津波てんでんこ』と言われて逃げられるの?」
誰も手を上げなかった。
「家族のことが心配だから」

先生はまた尋ねた。
「じゃあ、三陸の小中学生はなぜ逃げられたの?」
「ばらばらになっても、必ず家族が迎えに来ると信じていた」と生徒。

先生は語った。
「そう、信頼があったから行動に移せたんです。でもこの言葉ですべて
の命が救われますか?」
「幼児やお年寄り、自分で逃げるのが大変な人」は助からない。

先生は次の言葉で締めくくった。
「津波は人知を越えた巨大な自然の力。一人でも多くを救うため、非情
だけどこの言葉がある」。

女子生徒の一人が授業の後に語った。「津波てんでんこは冷たいよう
で、実は命の大切さを伝える温かい言葉だと思った。東北の子が逃げら
れたのは、災害の歴史があって言葉が伝統になっているからかな」。
 
やまねこは実は、このブログ「うらおもて・やまねこの棲家」を開始す
る前のやまねこ通信58号(41日)で「津軽てんでんこ」について書い
た。

それは「みんな一つになろう」式のメッセージがどんどん多くなってい
るのが気になった頃であった。

次にその一部を再録します。
フジテレビは「ひとつになろう、日本」というキャンペーンを流してい
る。

都知事の石原は「桜が咲いたからといって、一杯飲んで歓談するような
状況じゃない」と述べ、被災者に配慮して今春の花見は自粛すべきだと
の考えを述べた後、

「今ごろ、花見じゃない。同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感
が出来てくる。 「(太平洋)戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。
戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」とも語ったという。

石原という人は、強制された「連帯感」、空気のように目に見えぬ
場の持つ抑圧の力ということが、少しも見えない人物らしい。

異論を唱えたら特別高等警察が理由もいわずに土足で踏み込んだ時代。
隣組の監視装置。
これを美しいと言うのか。



だとしたら戦後の若者の反乱、「太陽族」、ヌーベルバーグは、
「美しいもの」に反発したのだったのか。
どこまでこの人物、日本の歴史に無知で鈍感なのだろう。

石原都知事の集団主義礼賛にはうんざりである。
  


釜石市に伝わる「津波てんでんこ」は、津波から身を守る方法として
、古くから三陸地方に伝わるものである。

三陸の人びとは、「老幼の者を助けようとして一家共倒れに」なったり
度々津波に襲われた苦い歴史から生まれた言葉で 読売新聞がの紹介に
れば、概要は以下の通り。

『死者・行方不明者が1200人以上に上った釜石市では、全小中学生約29
00人のうち、地震があった311日に早退や病欠をした5人の死亡がされ
た。しかし、それ以外の児童・生徒については、ほぼ全員の確認無事が
確認された。

市は2005年から専門家を招いて子供たちへの防災教育に力を入れており
 その一つが「てんでんこ」だった。

「津波のときは親子であっても構うな。一人ひとりがてんでばらばらに
なっても早く高台へ行け」という意味を持つ」(328日読売新聞)

「家族をさがしているうちに逃げ遅れ」たり、「点呼を取っている間に
津波に呑まれ」たりしてきた苦い経験から、緊急時にあっては、とにか
く「個人の判断と責任において、一刻も早く逃げる」という方針を徹底
してきたというのだ。



一方で、 原発は、国・通産省、東京電力、東芝日立の企業、それを支え
る東大中心の学界が、「みんな一つになって」、「安全神話」を唱え、
反対派に有無を言わさず、推進して来た。

巨額のカネが動いていた。御用学者たちの研究費もさることながら、
用地収用のため、どれほどの札束で地権者をひっぱたいてきたことか。


こることが予測される事態に対して準備したり予算を投じたり、訓練
るのではなくむしろ「原発は安全だ」いい、危機管理をすること必要
省略した。


日本人は集団主義になりがちであると言われている。いつからそうなっ
たのだろう、とやまねこは思う。企業であれ、学校であれ、町内会であ

れ婦人会であれ、異論を封殺する。
そうした共同体の中では、危機を唱えることは、組織の団結に対する反
乱と受け止められる。


外国旅行の際にかたまって行動する。自分たちの間でしか会話せず、
現地の人々と話すことがない


しかし単一母胎の出身者が多い組織、いつも「みんないはっしょ」をし
ている組織は、幼稚であり、いざというとき、共倒れになるから弱い。
このことが今回の教訓ではないのか。


ところがその日本で、命にかかわる津波襲来に対して、「てんでばらば
らがいいよ」、と釜石の人々は伝えていた。




これも日本なのだと耳を疑うが、やまねこも思いだしたことがある。

『越後、つついし、おやしらず』という水上勉の小説の題をお聞きにな
ったことがあるだろうか。

越中とやま出身のやまねこは、学生時代に東京に往復する折、特急を避
けて、各駅停車に幾度も乗ったものだ。
日本海いの北陸線はトンネルの連続。
眼は開けていられず、喉がいがらっぽくなり咳がでたものである。 

新潟県にはいったばかりのところに、能生(のう)、筒石、親不知とい
う小さな駅がある。

列車は急行を退避して長い間停車する。人気ないプラットフォームの向
うには、海と空しか見えない。隣の線路には石灰の大きな塊を積み込ん
だ貨物列車が止まっている。このあたりは、山が海にせまり海岸線が海
に突き出した地形である。



北陸道を徒歩で旅した時代、旅人が海沿いの道をゆくうち、親不知あた
りにいたると、道らしい道が消えてしまうことに気づいた。
旅人は、波の打ち寄せる合間を縫って、海岸を走った。
岩山のくぼみで、押し寄せる波を待つ。


波が沖合に引いた時期を見はからい、走って次の岩穴にもぐりこむ。
寄せる波から辛うじて身を守り、引き波の合間に、次の岩穴まで走る。
これを何度繰り返したのだろう。 

「一緒に向うの穴まで走ろうね」みんなそろって、集団主義で走った
だろうか?

とんでもない。
 

「親は子を知らず、子は親を知らず」引き波を待ちうけ、親も子も、
自分の命一つを運んだのだ。 

危機に際しての日本人の知恵が、北陸地方にもあったのだ。
この言い伝えが、地名になり、「親不知」の駅名に残っている。

いつから「日本人は集団主義」との神話が構築されたのだろう?
(以上引用終わり)

集団主義から成り立つ社会はいざという時共倒れになるから、弱い社会
である。

「てんでんこ」で逃げることはつらい。家族を置いて自分だけ逃げるな
んてとてもできない。高綱中の国語授業で生徒たちは考え込んだ。

「個」の原理で考えるなら、生徒のいう通りである。一人で逃げるなん
て心細い。できれば親と一緒に、きょうだい、友人とともに逃げたい。

けれど「共同体」「社会」の原理で考えるなら、「てんでんこ」が正
しい。共同体全体で何人生き伸びるか、一人でも多い方が良いのである。
緊急時の避難を「共同体」原理で考えるなら、集団主義は間違いである。

こう見てくると、集団主義とは比較的平穏な時代に求められる規範では
ないだろうか。平穏な時代に家族、地域社会などの秩序を重視し前例を
順守し、権威を温存することを望む社会規範ではないだろうか。

ところがこれとは逆に、もう一つ集団主義を強く求める社会がある。
これは、人々をひとつの方向に導き、大義名分のもとに、戦争に導こう
と考える者たちが必要する社会である。集団主義こそは、戦争指導者の
求める社会規範である。

日本の国が集団主義の根強い社会だとしたら、それは、いったい、
どんな目的でいつ作られ、誰の幸福に役立っているのだろう。
やまねこはこのことを疑問に思っている。

 うらおもて・やまねこでした。

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