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2011年7月9日土曜日

樽川通子さんの「うずく心」とフクシマから眺める戦後史

@@@@やまねこ通信108@@@@

樽川通子さんが信毎新聞「私の声」に投稿し反響を呼んでいる。
このことを紹介しようと、やまねこは本稿を書き始めた。
するうち樽川さんと田中康夫氏の運命の交錯が見えてきた。
その作業は原発建設史に眼を向けさせ、1960年代の若者たちの反体
制運動のエートスが、どのようにして掻き消されたのかを考える切っ
掛けにつながった。

  反原発、樽川通子さんと信毎新聞「私の声」
下諏訪在住の樽川通子さんはやまねこの最も尊敬する女性の一人で
ある。下諏訪町議会議員を4期16年務め、副議長を経て引退。全国
女性議員サミットを信州で開催。田中県政で長野県監査委員を務め
る。女性議員を養成する「ネットワークしなの」を下諏訪で開いた。
国会議員県議市議町議を問わず、関東甲信越を中心に女性議員で樽
川さんを知らない人はほとんどいないだろう。

樽川さんの名が、78日信毎新聞一面の「斜面」というコラムに出
ていた。「私の声」という投稿欄に掲載された樽川さんの文章を紹
介しながら、九州電力が原発再稼働のために社員に対し組織的に賛
成メールを送るように指示した事件を「斜面」は批判している。

信毎627日付「私の声」に「原発事故でうずく心」という樽川通子
さんの文章が掲載された。
信毎新聞には「私の声」採用分は「当社データベースに収録し、一
般に公開する」と書いてある。けれど検索しても出て来なかった。

信毎を読む機会のない方々のために全文を引用しよう。

昭和52年(1977年)の春、私は地元の婦人会長を引き受けた。
のころ、原子力発電所の増設問題をめぐり、さまざまな声が県
内外にあふれていた折でもあり、私は本紙記者の取材を受けた。
建設に否定的な私の意見が新聞の片隅に載った日、自宅に電力会
社の地元幹部が訪れた。「婦人会長という立場にある者の発言と
しては、いかがなものか」という内容だった。自分の思っている
ことも自由に発言できないのであれば、会長はすぐに辞退すると
答えて、物別れとなった。
 少し時が流れて、電力会社は地元還元という大義を掲げ、女性に
学習の場を提供するための組織を県内でも各地に作りたいので、相
談に乗ってほしいと要請して来た。その時すでに諏訪地域の女性を
対象とした会員名簿が作成されていたが、初代会長を私にという話
にはさらに驚かされた。
「口封じ策だ」「懐柔策だ」と私は反発したが、辛抱強く説得さ
れ、受諾した。その瞬間、なぜか全身の力が抜けて落ちた。
高名な講師を中央から迎えて講演会を開催した。ダム湖の視察もし
た。原発の見学には大型バスが用意されていた。料理教室も開かれ、
会報まで発行した。会長が何人か交代するころ、原発に関する記事
が新聞に載ることも少なくなり、豊富な電力の恩恵を社会が受け入
れたころ、気が付いたらその組織は消えていた。
あの時は私なりに精いっぱい原発のことを考え、行動したという
自負がある。だが、このたびの東京電力福島第一原発の事故を受
け、慙愧とも悔恨ともつかない罪悪感にも似た奇妙な思いが、心
の深いところでうずいている自分を持て余している今日このごろ
である。(引用以上)
(樽川通子・82歳・諏訪郡)     
 
  原発建設ラッシュの時代
1970年代という時代は、日本の原発建設ラッシュの時代であった。
この10年間に計18基が運転開始したことをやまねこは原水禁のHP
確かめた。東電福島第一の1号炉から6号炉まですべて70年代である。
中部電力浜岡の1号炉は76年、2号炉は78年である。関電は美浜高浜
大飯に6基、中国電1基、四国電1基、そして問題の九電玄海1号が75
10月に発電開始した。80年代に運転開始したのは東電福島第2、
中電浜岡3号を含め4基である。

樽川さんの投稿にある77年は中部電力浜岡2号炉運転開始の1年前で
ある。

原発に対して批判的な意見を新聞に投稿した樽川さんに対する電力
会社の働きかけは、第1に恫喝、第2に懐柔、第3に反対派を取り込ん
での「接待作戦」だった。
原発から程遠い下諏訪でさえこうだったのだとしたら全国でどれだ
けの数の人々がこうして善意のうちに巻き込まれ、国民の支払う電
気料金がどれだけここに投じられたのだろうか。

  1960年代から1970年代にかけて
1960年代の米国のベトナム侵略反対の運動に始まる政治の季節は、
進国の学園紛争で頂点に達した。ノンセクトラジカルの若者たち
が、「正義」に照らして社会の現実に根源的異議を投げかけ、この
異議申し立ては全国的な広がりを見せた。

成田空港建設計画における国の横暴な手続きに対する反対闘争、水
俣病の責任企業チッソ告発など、国と大企業に対する若者たちの反
対運動が全国に拡大していた。
反原発運動もこの時代は活発だった。自分は原発反対派だとやまね
こは考え、署名カンパなどにはできるだけ応じていた。けれど、70
年代後半から80年代にかけて、反原発活動がどうなったかを、すっ
かり見失っていた。

1970年代には若者たちの政治活動はあっという間に弱体化し、急速
に後退してセクト間の内ゲバが目立つようになった。1975年に水俣
病の責任企業チッソ元社長らに対し業務過失致死罪で有罪判決が出
た。成田闘争が敗北して78年には成田空港が開港した。

左翼運動の後退は、1972年に2月軽井沢町の浅間山荘事件で決定的に
なった。連合赤軍の若者たちが警察に包囲され容赦ない攻撃と捕縛
の対象になった。浅間山荘事件では、これ以前の学生運動に対する
思想犯としての猶予はかけらも見られなかった。
若者たちは成田や水俣など地方の泥の匂いのする闘争からは足を洗
って企業に就職した。

   政治家としての樽川さんの責任感
樽川通子さんの政治的経歴を追ってみよう。
樽川さんと仲間の女たちの生涯を聞き書きした本『下諏訪の女衆』
(芙貴出版社)から読みとったものである。

樽川さんは新聞の投書で自分の意見を何度も発表していた。
1977年下諏訪町二区の婦人会長に選ばれた。「私の声」に書かれた
東電の恫喝はこの時に行われた。その後1980年、樽川さんは下諏訪
町の連合婦人会長に就いた。二区の婦人会長としての活躍が著しか
ったがための選出だったと思われる。けれど東電の「諏訪地域の女
性を対象とした会」の会長に祭り上げられたことが、連合婦人会会
長の選出を後押しすることはなかったのだろうか。
連合婦人会会長を足がかりに83年には下諏訪町町議に選出され、後
の華々しい活動が始まったのだから、このことは重要な点である。

政治家としての出発点に東電のこうした働きかけが影響したかもし
れない。それでなくても東電の誘いに結局乗ってしまった。
このことを「私の声」に樽川さんは告白したのである。「慙愧とも
悔恨ともつかない罪悪感にも似た奇妙な思いが、心の深いところで
うずいている」と樽川さんは結んでいる。
政治家としての責任をこのようにして果たす男性政治家の話をどこ
かで聞いたことがあるだろうか。やまねこは樽川通子さんのこうし
た思いを、責任感の表れとしてしっかり受け止めたいと思う。

  80年代の旗手田中康夫
1980年代はそれまで少しは残っていた政治色がほとんど消失してし
た時代である。80年に田中康夫は『なんとなくクリスタル』でデビ
ューした。バブル経済の恩恵を受け、高給によって豊かな消費を楽
しむ若者たちの姿が前景に登場するようになった。朝日ジャーナル
に連載された田中康夫の『ファディッシュ考現学』(86年)はこの
時代以後の消費文化を理解するための格好のガイドブックでありや
まねこ愛読の書である。
この時代は中曽根内閣の民活の掛け声が高まり、電電公社はNTT
なり専売公社も民営化され、国鉄民営化が進み、国労解体が行われ
た。

けれどフクシマ以後の今日、この時代を顧みるとするなら、70年代
の原発新設ブームが終了し18基の原発が運転を開始していた。しか
もその管理体制は、不破哲三氏が国会で幾度質問しても改まること
はなく、むしろ「安全神話」が先にあるがために、事故対策を考え
る可能性さえ消えていたのだ。『なんとなくクリスタル』の時代は
なんとなく見えない原発」の時代であった。

  女の時代
1980年代といえば、「女の時代」と呼ばれた時代である。1985
男女雇用機会均等法成立、1986年土井たか子日本社会党委員長に
就任し1990年の選挙でも「おたかさんブーム」は強力だった。
2005年落選)。1986年フィリッピンでコラソン・アキノが初の
女性大統領に就任した。選挙戦での黄色いTシャツが人気を博し、
日本の地方自治体でも黄色のTシャツの女性議員が当選した。
樽川通子さんの下諏訪町議初当選は83年である。86年の「おたか
さんブーム」の3年前。しかも流行に敏感な首都圏ではなく地方だ
から、樽川道子さんこそ「女の時代」を切り開いた先駆者の一
と考えることができるだろう。彼女の個性実行力が、この時代
の潮流を導いたとやまねこは考えている。
女性学もこの時代に誕生した。

  1990年代と2000年代
2000年には、田中康夫が長野県知事に選出された。1995年阪神淡路
大震災の後、被災地でのボランティア活動を通じて田中康夫は政治
に関心を向け始めた。
田中知事は当選後最初にした公務が、1029日の「全国女性議員サ
ミット」での挨拶だった。土井たか子、森山真弓、堂本暁子、小宮
山洋子らはじめ長野市のホテル国際21に全国から1200人を超える
参加者が集まった。

「女が女を育て、女が女の力を信じなければ<政策決定の場>に女
性を参加させることはできない!」と「ネットワークしなの」を立
上げた樽川さん年来の理念が実ったのだ。

「女性は絶対に戦争を許さない。だから議員が増えれば平和を時代
に引き継げる。教育や食品の安全、高齢者対策など、女性ゆえの視
点は重要です」(朝日新聞「人」2000118日)
「主役は私ではなく下諏訪の女衆です」が口癖。

その後、樽川さんは2004年田中県政の最後の年、長野県監査委員を
委嘱された。

  原発建設という至上命令、反体制運動の壊滅
樽川さんの新聞投稿「私の声」を紹介しようと書き始めた本稿。作
成するに当たり年代を追って見直すうち、やまねこは遅まきなが
気づいたことがある。

1970年代の原発大量建設を招来するためには、若者たちの政治活動
を封じ込めることがぜったいに不可欠だったであろう。

成田闘争の急速な終結と水俣病の有罪判決、浅間山荘での「過激派」
に対する容赦ない攻撃の開始。

これらの目的とするところは、今にして思えば、すべて、この国を
高度工業国へと改造するためであり、その裏付けとして国の根幹で
あるエネルギー政策を原発中心に転換する国策実現のための地なら
しに他ならないのではなかったか。

全国に広がる原発の敷地がすべて成田闘争のような若者の政治活動
の砦と化すことを、自民党政権は何よりも恐れたのではなかったか。

あつものにこりてなますを吹いた自民党長期政権の最大の成果は、
国民の政治的意思表示の可能性までを社会から排除したことではな
いだろうか。仏独米などの高度工業社会では、40年前も今も、市民
のデモンストレーションが事あるごとに行われる。軍隊の介入も聞
かれるから賛美だけするわけにはいかないとしても。

けれどこの国では、集会に便利な都市の公園はどこも、ベンチや植
え込みのため人が集まれないように改造されて久しい。フクシマ以
後の高円寺での大規模デモの報道さえほとんど大資本メディアでは
聞かれなくなった。
左翼運動の後退とともに原発建設の現実が見えにくくなった。電力
会社は膨大な広告費でメディアを無力化した。やがて「安全神話」
というあってはらないものが独り歩きして、国民は無知の中に取り
残された。

今回の大震災にともなう東電福島第一原発事故の根源は、1960年代
70年代以後の政府与党の反対派つぶしと治安維持活動にその根っこ
があたのではないか。これがやまねこの今回の発見である。

80年代の「女の時代」に政治の世界に躍進した樽川通子さん、同じ
80年代の消費社会論の旗手田中康夫氏の運命の交錯が興味深い。
これはどちらも、「原発が見えなくなった時代」を背後に置いてい
たことが、今となっては了解できる。
樽川通子さんはこのことに気づいて、「原発事故でうずく心」を信
毎に投稿した。このことを多としたいと考えるのは果たしてやまねこだけ
であろうか。

フクシマから眺める戦後史ノート、長い投稿を最後まで読んでい
ただき感謝します。

うらおもて・やまねこでした。

2 件のコメント:

  1. 身近に原発を巡る動きがあったことを認識しました。
    下諏訪に樽川さんのような方が居ることも初めて知りました。
    学生運動の封じ込めと原発推進がリンクしていることの分析も納得。
    全てのことは最終的には「ひと」なのだと、改めて実感しました。

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  2. うらおもて・やまねこ2011年7月10日 19:15

    自燈明さま
    コメント有難うございます。
    60年代に学生生活を送ったので
    70年代から80年代にかけての東京の変化は
    びっくりする変わりようでした。
    喫茶店が無くなったのも70年代後半の出来事
    ではなかったでしょうか。
    町から位わやわやした空間がなくなって
    やがて地価バブルが起こりました。

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