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2011年8月10日水曜日

「陸前高田の薪を拒否した大文字焼き」、今中哲二氏「放射能汚染の中で生きてゆく」

@@@@やまねこ通信124@@@@

岩手県陸前高田市の海岸、松原に一本の松が津波のにも負けず、倒
れずに立っている。この地域の市民が薪に祈りの言葉を書きしるし、
京都五山の送り火、通称「大文字焼き」に送ったところ放射能を懸
念して拒否されたとの出来事をテレビ報道で見た。

「大文字焼き」は「大文字五山送り火」というのが京都市や観光連
盟の公式名らしい。地元の人々は単に「送り火」という。

陸前高田市の薪を拒否したのは「送り火保存会」の人々だった。京
都市は思いがけぬ出来事に、手をこまねく様子が見てとれた。「送
り火保存会」の決定が、すべてであるように見えた。

そのため、京都市には次のような意見が電話、インターネット等で
全国から寄せられた。

「被災地を差別する行為だ」
「中止を撤回すべき」
「五山の送り火なんて見たくない」
「被災地の思いが無駄になる」
「京都に裏切られた」
「風評被害に加担するのは日本人として恥ずかしい」
「京都市民として恥ずかしい」
「送り火は死者を鎮魂する場で被災者の思いに応えられる場。

『いちげんさんお断り』のようで、京都市民として恥ずかしい」
「陸前高田市は原発から離れているのに、被災地の思いを届けよう
 
とする真摯な取り組みをなぜ中止するのか」
89日の時点で京都府と京都市に1000件以上)

あるTVキャスターは語った。「『五山の送り火』には魂を慰めるた
めとか、国の安寧という意味合いがあるにもかかわらず、名折れで
すよ」。以上引用。

お盆には迎え火、送り火、灯篭流しをする。お盆はこの国では、彼
岸と共に、来世と往環し橋渡しをする時期なのだ。火や水、風や土
の地水火風がその仲介、乗り物である。

こうした宗教行事においては、どの宗教においても共通するように、
俗世の穢れを、火や水、風や土が清めて聖なるものに変容すること
を、ルーマニア生まれの宗教学者、ミルチャ・エリアーデが伝えて
いる。

葬儀では火を灯し、遺体は火葬、水葬、土葬にする。チベットには
鳥葬という風習があるが、これは風の聖なる力に依存したものであ
ろう。

地水火風は宇宙の根源的存在であり、万物はそれらの様々な組み合
わせからなっている。存在は死に臨んで根源的存在に還元されると
考えてもいいだろう。

京都の「大文字焼き」では火を燃やす。このことで現世の穢れた存
在を、聖なるものに変容する。大文字焼き」もこうした宗教行事
の例外ではあるまい。

ところで「送り火」の起源は平安時代とも江戸時代とも呼ばれるが
公式記録は存在しない。江戸前期以後、京の風物を伝えた文書に書
き伝えられている。(Wikipedia

大文字焼き」にはしかも、京都以外の地域からも薪が送られて来
るという。なるほど。京都は奈良と共に仏教の中心地であった。だ
とすれば、中心にはそれにふさわしい行動様式が伴わうことを要請
されるであろう。

やまねこが気になるのは、「送り火保存会」はどんな人々からなっ
ているのかということである。Wikipediaによれば、「浄土院の(元)
檀家による世襲」であるという。

「送り火保存会」は世俗の団体であり、僧職者からなる組織ではな
いであろう。けれど仏教の都である「中心」において、全国からの
薪を受け止めての名物行事を、長年にわたって取り仕切る責任を果
たしてきた人々である。この人々が、火の穢れを清める宗教性、そ
れに仏教の中心が果たすべき、大らかな受容的役割を、少しでもわ
きまえることがなかったのだろうか?

このことが少しでもあれば、今回のような排他的決断を下すことは
ありえなかっただろう。
「送り火保存会」は村の盆踊り保存とさして変わらぬ水準のメンタ
リティーで保存を続けて来たのかもしれない。そうした例が全国に
多数存在するだろう。それはそれ自体として咎められることではな
いかもしれない。

けれど、3.11以後の今日、さまざまな現実が陽のもとに晒される。
これまで誰にも問われることがなかった「送り火保存会」のおそら
く、男性ばかりからなる「慣例」。伝統にあぐらをかいた保存会の、
宗教とはうらはらな、安逸な世俗性、日常性がさらけ出されてくる
のだ。

ところで、「送り火保存会」の決定に対し、宗教的配慮を犠牲にし
ても、科学的知見によって、放射性物質には近寄らない方がいいと
お考えの方はないだろうか?

もしもそうだとしたら、同じ京都の京都大原子炉実験所助教、今中
哲二さんの話に、耳を傾けていただく良い機会である。

6月11日、茅野市のかんてん蔵で、「君に、とどけ!チャリティ
ー勉強会」で、原子力資料情報室、名古屋大学名誉教授の古川路明
先生が講演をされた。

@@@@やまねこ通信110@@@@において既報。http://kyoko---fairisfoulfoulisfair.blogspot.com/2011/07/50100.html

古川路明先生はそこで、今中哲二さんの朝日新聞寄稿のコピーを配
布し、今中哲二さんは脱原発に関して、今後もっとも信頼できる学
者の一人であると紹介した。

今中哲二氏の所属する、京都大原子炉実験所は大阪府の熊取町にあ
って、小出裕章さん始めそこに所属する脱原発の研究者たちは、敬
意を込めて「熊取六人衆」と呼ばれている。

今中さんたちは、19788月、愛媛県の1号機の原子炉設置許可取り
消しを求めて原発周辺住民35人が提訴した伊方原発訴訟を支援した。
日本で初めて原子力発電所の安全性が争われた中、科学者グループ
の一人として活動した。

今中さんはまた、チェルノブイリに何度も滞在し堪能なロシアを使
って現地調査をした。東電福島第一原発の後、早いうちに飯舘村で
放射能汚染を計測。政府発表は原発からの同心円上の距離だけを避
難区域としていたが、その対策が不十分であることを、早いうちに
警告したのも今中さんたちだった。

放射能のリスク 汚染の中で生きる覚悟を/京都大原子炉実験所助
教 今中哲二
「朝日新聞」 2011629日付 東京朝刊 15面 オピニオン1

 旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の影響について、長年にわたっ
て現地の調査を続けてきた。その課程で、放射性物質に汚染された
地域での被曝線量をソ連がかなり綿密に調べていたことを知った。
村ごとに外部被曝による線量や、食品や牛乳などから体内に取り込
まれる放射性物質を計算し、基準値と照らし合わせ、居住可能かど
うかを判断していた。

 福島第一原発事故の被災地でもこのような作業が必要だ。放射性
物質の分布は濃淡が激しく、同じ集落でも、場所が違うと線量も異
なる。だから、住宅1軒ずつの線量を計算しないと、被曝量も出せ
ない。その土地で摂取されるあらゆる食品の放射能も、住民の内部
被曝の度合いも測るべきだ。そして、住民に「あなたがここに住み
続けると受ける線量はこのくらいですよ」と示す必要がある。
× × ×
 線量をはかりにくいストロンチウムやプルトニウムがまき散らさ
れたチェルノブイリに比べ、福島の被災地に残るのはほとんどが放
射性セシウムで、計測に大きな困難はない。自治体が責任を持って
その作業を進めるのが望ましい。そのうえでとどまるかどうかは、
住民自身が決めることだ。

 よく基準値以上なら危険で以下なら大丈夫、と考える人がいる。
年間1㍉シーベルトとか、20㍉シーベルトとか、さまざまな基準値
が議論されている。しかし、こうした数値は、科学的根拠に基づい
て直接導かれたものではない。がんになるリスクのある放射線にど
の数値まで我慢するかは、社会的条件との兼ね合いで決まる。

 たとえば、1㍉シーベルト以下でも我慢できず、安全な場所に引
っ越そうとする人もいるだろう。しかし、引っ越しにはそれなりの
経済的、精神的負担が伴う。人によっては「20㍉シーベルトを超え
てもまだ故郷に残りたい」「農業を続けたい」という判断もあるに
違いない。
× × ×
 放射能をどこまで我慢するか。この難しい判断を市民一人ひとり
が迫られている。それは福島県だけのことではない。東京もそれな
りに放射能に汚染されている。少なくとも一時は、外出を控えた方
がいいほどのレベルだった。だとすれば、汚染の低いところへ避難
すべきだった。そこでも、個人の判断が必要になる。

 私たちはもはや、放射能汚染ゼロの世界で暮らすことが不可能に
なった。これからは、放射能汚染の中で生きていかなければならな
い。その事実を受け入れたうえで対策を考えなければならない。
(構成・国松憲人)以上引用。

今中哲二さんはチェルノブイリの前例に鑑みて、「放射性物質の分
布は濃淡が激しく、同じ集落でも、場所が違うと線量も異なる」と
考え、距離の遠い飯舘村を調査した。これまでの研究が、住民の避
難に役立った。

今中さんはさらに「住宅1軒ずつの線量を計算しないと、被曝量も
出せない。その土地で摂取されるあらゆる食品の放射能も、住民の
内部被曝の度合いも測るべきだ。そして、住民に「あなたがここに
住み続けると受ける線量はこのくらいですよ」と示す必要があると
語っている。

「私たちはもはや、放射能汚染ゼロの世界で暮らすことが不可能に
なった。これからは、放射能汚染の中で生きていかなければならな
い」と語る今中氏。

この国は、どこもすべて放射能の汚染地域になっている。京都の
「大文字焼き」の地域だけ「聖域」のままであるわけがない。

ところで、もともと仏教であれキリスト教であれ、宗教の「聖域」
とは、もっとも穢れ、もっとも苦しむ者たちをすべて迎え入れ、看
取ってくれる場所ではなかっだろうか?

陸前高田市の薪を、「穢れ」として拒否したという事実において、
「大文字焼き」の保存会は、その地が「聖域」でないことを告白し、
その火が、穢れを浄化する力を持たない世俗の火であることを満天
下に晒したのである。

今更、言あげするのもはばかられる観光仏教の地京都。「送り火保
存会」の世俗性は京都の仏閣が宗教的求心力を失っていることの現
に他ならない。あえて、京都の宗教界に問題を拡大解釈して話を
ぶことにしよう。
観光地収入があまりに潤沢で、もはや宗教の役割を果たすどころか、
有り余る財を使いあぐねていることが伝えられる京都の神社仏閣。
その周辺に群がる「保存会」の意識の水準。こう書くやまねこに対
して「京都の仏閣なんて宗教と何の関係もないよ。あれは観光業者
だよ」と嘲笑が浴びせられるかもしれない。

けれど、陸前高田の松原の薪に、祈りを書いた人々にとって、「大
文字焼き」は宗教行事の役割を失ってはいない。この国には、宗教
に対して救済を求める人々が多数、存在する。

今回の大震災、原発事故に遭った多くの被災者にとって、果たして
宗教以外にどんな救済があるというのか?

こうした現実に対して、観光仏教と葬式仏教に堕した京都ばかりで
なく全国の宗教者たちとその周辺の人々は、どのように応えるつも
りなのだろう?

うらおもて・やまねこでした。

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