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2011年9月6日火曜日

台風12号、古い芸能舞台巡り、境内の栃の実

@@@@やまねこ通信133@@@@

四国、中国、近畿地方に大雨や土砂崩れをもたらした台風12
が、北海道で今なお大雨を降らせている模様。

皆様の地域では、いかがでしたか。中央道通行止めもあり、週
末の外出をとりやめにしたとのメールもいただきました。


茅野でも92日(金)は風雨がひどくなり、夜の10時頃、やま
ねこの棲家は停電になった。枝の茂った樹木が多い地域だから
倒木が電線に触れるなどの事故が考えられた。

ところが5キロ離れた知人宅、1キロはなれた友人宅に問い合わ
せたが停電ではなかった。電力の送電経路が違うのだろうか。
住居の管理センターに連絡したところ、中部電力が事故現場に
向かい、これから故障個所を探す見込みだから復旧の見通しは
立ってないと伝えてくれる。仕方なく早めに眠る。

3日の午後、ようやく雨がやや小降りになったのを見計らい、
フードのコートを着て近所を散歩。コンクリート舗装の路上に
は、カラマツの緑の枝先、小枝や中枝、広葉樹の葉っぱなどが
一面に散らばり重なり合って、足の踏み場がないほどである。
それらを踏みしめながら、上空の樹木の轟々たるうねりを鑑賞
するため、広い道路の方に向う。被害に遭われた方々には恐縮
だけれど、嵐を眺めるのが大好きなのは母親ゆずりらしい。

9月になるが早いか、秋のただ中の涼しさである。
94日(日)は市民館サポートC主催「市内芸能足跡をさぐる
ツアー」に参加。神社、仏閣の境内に建てられ、地域の人々の
娯楽の役割を果たした古い芸能舞台を見て歩くのである。ツア
ーの計画を聞いたやまねこ、市内の未知の場所をめぐり歩く良
い機会だと思って飛び乗った。

3年前に郷土史家武居好重先生の案内で、坂本養川の足跡をめぐ
るツアーに参加した。坂本養川は、諏訪の山浦地方、すなわち
八ヶ岳西麓の茅野市原村富士見町に15の堰(せぎ)を開いて、
約300ヘクタールの開田を可能にした歴史上の人物である。
Wikipediaには掲載されていない。長野県のHPを参考にしなが
簡単に紹介しよう。

今から240ばかり前のことである。茅野の山浦地方はかねがね水
不足のため畑作中心で荒野が多かった。名主の家に生まれた養
川は、殖産興業が必要と考えた近畿、関東地方を歩いて土木
を学び、各地の水利や開拓地の実情を調査。帰郷後山浦を調査、
測量した。

養川は考えた。滝之湯川・渋川は比較的水量が多い。余った
足している南の地域へ送り、複数の河川を用水路でつない
で、その沿岸をかんがいする繰越堰(くりこしせぎ)を開削す
ればいいのではないか。

高島藩家老職の諏訪大助に用水開発を請願した。けれどすぐに
は聞き入れられなかった。家中がお家騒動のため、水利を根本
的に改善、食糧供給を拡大し、民の暮しの改善を図ることで
いては高島藩全体の碌高を向上させることを考える余裕など、
とてもなかったらしい。よくある話である。

5回の請願を経て、安永が天明になった頃、藩は不作による大
飢饉に見舞われた。生産力を増大する必要に迫られた藩は、11
年目にようやく養川の計画を採択する。

滝之湯川より取水。湯川村ほか11か村におよぶ滝之湯堰の開
削工事を実施。以後寛政12年(1800)までの15年間に
多くの堰が開かれた。

観光名所となった横谷温泉の滝などもこの折の水路の大工事の
産物であるらしい。今日も利用されている茅野の大規模な治水
事業をやりとげた坂本養川。

その誕生の地が田沢であった。武居先生のツアーでは、田沢の
集落を最後に訪問した。この時、神社の境内に芸能舞台がある
ことにやまねこは気づいた。

建物の両側に袖があって、三味線や笛など音曲の演奏ができる
ような建築構造だった。当時70代後半だった武居先生の父上が、
田舎歌舞伎の上演に熱心でおられたという。

この時、廃墟となった舞台を再利用しようとの動きがまったく
聞かれない様子を知って、残念だったことを思い出す。

ところが、今度のツアーでは、芸能舞台の構造を探り、その再
利用可能性を探求することも含まれているというのだ。古い箱
もの見学だけではない。それを今に生かそうとのアイディアが
見える。

9時、八ヶ岳総合博物館前に集合したのは、リーダー原房子さ
んら女性ばかりの総勢5名。男性1名遅れて参加。最初の目的地、
博物館では、所蔵された古い衣装や演目の台本を眺める予定。
貯蔵庫の二階の奥に、アミ製の長持ちケースが何本も並んで
いる。それを階下に運び、衣装広げ写真を撮る。

古い鎧、烏帽子が見つかる。ボール紙を重ねて作ったコザネを
紐でつなぎ合わせた丁寧な作りの鎧。やはりボール紙を打ち合
わせた烏帽子。衣装は鶴亀に松竹梅の豪華な模様、金糸の刺し
ゅう付きの絹地。長い袴。人形に着せたのだろうかと思われる
小さな羽織はかま、それに下着も。台本は差し当たり一冊見つ
かった。寄贈した地域の名前が衣装の札に書かれている。使わ
れなくなって、博物館ゆきとなったのだ。

第2のポイントは、泉野の回り舞台である。縁の下にもぐりこ
むことを予め聞いていた。縁の下は思いのほか明るくて通気が
良く清潔である。大きな石積みがある。「あ、囲炉裏だ。堀炬
燵かもしれない」と誰かの声。その隣に回り舞台の木の車が見
える。中心の柱から、長い柄が何本か伸びている。これを押し
て舞台を回す「縁の下の力持ち」が活躍する場だったのだ。

雨が時折強くなる。第3ポイントは米沢の宝勝寺。大きな茅葺
の庫裏がある曹洞宗の寺院。寺門左手に芸能舞台があった。今
は地域の公民館となっておりその二階は倉庫代わりである。昇
ってみたところ、二階の屋根裏に籠が仕舞ってあった。ここを
舞台として使えるだろうか。そう思いながらの下見でもあるの
だ。

このあたりでお昼になった。長寿更科で腰を下ろす。日曜のせ
いか、ほぼ満席。名物の十割蕎麦を味わいながら、地域の芸能
舞台の先行研究の書物のコピーを拾い読みし、今後の予定を聞
く。10月には駅前で長持ちの引き回しをするという。

最後の第4ポイントは坂本養川の生地、田沢である。本当なら
二百十日のこの日、地域のお神楽が境内で催される予定だった。
けれど雨のため急遽公民館に会場を変更したらしい。

田沢稲荷の境内には、木の実がごろごろ落ちている。「ああ栃
の実」と誰かがつぶやく。すぐさま手にとると外皮がぽろりと
はがれる。中にあるのは、栗の実のような茶色のつやつやした
実である。一週間、アク抜きをして粉末にし、白玉粉に混ぜて
団子にして蒸すと、昔ながらの栃餅が食べられるという。

餅を作るかどうかは問わず、木の実を拾うのは楽しい作業だ。
何個も拾ってポケットやショルダーバッグに押し込み、大量に
拾った人はビニール袋にぎっしり詰めた。家に帰ったら、作り
方を調べよう、と声を掛け合う。

それにしても、200年前に坂本養川が見たかもしれないこの
田沢の舞台が本当に使えるだろうか。破れた木の扉の隙間から
中を覗くと、復活した田舎歌舞伎の舞台が幻視できるだろうか。

この日は、地域の芸能舞台復活、第一歩の日であった。これか
らどのようにして、人々のうねりを紡いでゆくことができるだ
ろう。何人もの人々が共同で見る楽しい夢である。

そろそろ午後2時過ぎである。それぞれ次の予定がある。博物
館まで戻ってそれぞれの車に乗り、栃の実を抱えてこれで解散
だった。

うらおもて・やまねこでした。



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