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2012年5月5日土曜日

映画『丸岡秀子 ひとすじの道』上映・勉強会5月26日(土)、 旧中込学校訪問記


@@@@やまねこ通信194@@@@

●「マルチな分野で本を書き、行動した丸岡秀子。女性と農村、
政治、経済、社会、教育、子育て、人権、反戦、親しい者との
別れのエッセー。シングルマザーの秀子は自立した女性のパイ
オニア。その活躍ぶりは今なら、勝間和代!けれど、弱い者た
ちへの共感に満ちているから、香山リカに相談しなくて済む、
丸岡秀子。

苦難が彼女をつよくした!ここに「あなたの物語」を発見しま
しょう」。

こんなチラシを配布しています。

信州佐久・臼田に生まれ、中込で育った丸岡秀子(1903-1990
は、子連れで全国の農村をくまなく歩いて調査し、苦境におか
れた農村の中でも、女たちが最下層におかれ、死産、流産が多
く、堕胎、間引きの誘惑の中に生きている状況を『日本農村女
性問題』(1937年)で明らかにしました。

近代日本を底辺で支えたのが農村であったことは頻繁に語られ
ています。けれどその最底辺に女たちがいたことは、なかなか
語られません。都市女性だけに関心が集まっていた「女性問題」
の世界に、丸岡秀子は、農村女性の分野を開拓しました。都市
労働女性の多数が、実は農村の出身なのでした。

「農村女性」に対する秀子の生涯にわたる熱い思いの原点は、
秀子を生んで十ケ月後、24歳で死去した実母、その後、母代り
で育ててくれた母方の祖母、一緒に育った常、農業労働者であ
るその母ら、重労働の中で、命をつないだ信州・中込の女たち
でした。3部からなる自伝小説に基づいた、映画『ひとすじの
道』は、丸岡秀子の生涯を描いています。

会場:諏訪東京理科大学4号館432室
入場料:500円、無料託児所あります。ご連絡ください。
問い合わせ先:090-9664-1894(ふじせ)
主催:ちの男女共生ネット
後援:茅野市、茅野市教育委員会

ちの男女共生ネット主催のこの会は、これまで4年にわたって年
6回開催してきた、成瀬巳喜男映画を「女性学」「男性学」で分
析しながら、男性社会の仕組みをジェンダー批判する「講座」、
茅野市男女共同参画を進める会主催の「講座」の発展的形態です。

これまでご参加くださったみなさま、初めてのみなさまも、どう
かご参加くださいますようにお願いいたします。

  苦難が丸岡秀子をつよくしました。
フィリッピンで原発を廃止に持ちこみ、米軍を撤退させた非核連
合事務局長のコラソン・ファブロスさんは語りました。
「事態が厳しくなればなるほど、私たち、力が湧き出すんですよ
!」
丸岡秀子も、きっと同じ思いでいただろうとやまねこは考えてい
ます。

  丸岡秀子の足跡訪問記
  ちの男女共生ネット、キックオフの会の2日後28日(土)、
新しく発足したネットのメンバーの間で、時間の都合の良かった、
さちほさん、せいたかさん、やまねこの3人は、旧中込学校、臼田
清集館の佐々木都さんを訪問しました。佐々木さんは丸岡秀子記
念碑の建設を発案し、建設委員長を務めた方です。信濃毎日への
投稿歴が長く、文筆活動も旺盛。信州の女性の間で知る人ぞ知る
方なのでした。

丸岡秀子のことに詳しい方が見当たらないか、知人友人に問い合
わせるうち、とんとん話が進み、佐々木都さんに紹介してくださ
る方があらわれ、お目にかかることになった。

●佐久地方は、やまねこたちの住む茅野から見れば、蓼科山の向
こう側。白樺湖を越えてドライブすれば1時間半ほどで到着する。

 丸岡秀子の旧姓は井出ひでという。父の家は臼田の橘倉酒造。弟
  である政治家の井出一太郎はじめ、有力な親族を何人も出してい
  る名家である。

  けれど、秀子は、裕福な名家で育ったのではない。両親の最初
  の子供だった秀子は、母の産後の肥立ちが良くないため、母に伴
  われ実家に暮らすうち、秀子10か月の折、母が死去した。その後、
  父が迎えに来ることがなく、秀子はずっと祖父母のもとで暮らし
  た。

母方の祖父の家はかつて庄屋の家柄だったが、土地を抵当に入れ
たことが元で、地主に土地を借りる立場に転じていた。1年の収
穫が土間に積み上げられたと思う間もなく、地主の荷車がやって
きては、俵をどんどん運びだし、最後には3俵しか残らなかった。

この3俵に麦を加えて、祖父母と秀子は1年を食いつないだ。

丸岡秀子は書いている。
「私の小学校時代は、三杯飯に味噌汁と野沢菜が、毎日の食事で
した」。
「没落庄屋のぼんぼん育ちの祖父が、五反百姓となり、肩を落と
した暮らしを祖母が必死で支えている中で、若くて死んだ娘の遺
児である孫のわたしを引き取って育てることは、容易なことでは
なかったと思う。

ことに、地主小作制度のきびしい時代で、ようやくコメを収穫し
て年貢を納め、さらにそれまでにたまった借金を返したあとの自
家用米は、何ほども残らなかった。翌年の2,3月になると、農
家でいながら、コメの一升買いが始まる。
だから毎日のごはんには、ほとんど、麦が入り、「おほうとう」
といったうどんで過ごす夜も何度かあった」。
(『十代に何を食べたか』平凡社+未来社編(平凡社ライブラリ
ー))

丸岡秀子が臼田の裕福な酒造家の長女として育ったかのように語
ることは、大きな間違いである。

秀子は貧しい祖父母の家と、共に育った常、その母たちなど、最
底辺で命をつなぐ女たちの生を自分のものとして選択したのであ
る。このことを、秀子は小説「ひとすじの道」に書いた。

中込の暮らしが自分をつよい人間に育てあげた原点であることを、
小説を書きながら著者秀子は噛みしめていた。

  旧中込学校訪問
  丸岡秀子が通った中込小学校は、明治6年(1873年)、成知学
 校として創立し、8年に校舎が出来た。現在この旧校舎は、博物館
 として、見学者を集めている木造の西洋建築。一階教室は、黒光
 りした床の上に小さな机と椅子が並べられ、机には石板が置いて
 ある。

二階は明治時代の教科書、算盤などの展示室。「井出ひで」の名
が最初に書かれた、生徒の出席簿、卒業写真も見られる。

二階の廊下に、太鼓楼入口の標識がある。薄暗い照明の中、木造
の急傾斜のらせん階段を昇ってゆく。頭をぶつけぬように気を配
りながら、手探りで登りつめたところが、太鼓楼だった。

なるほど天井を見るとその輪郭が八角形。中心から大きな太鼓が
吊り下がっている。白地の天井には、小さな文字で、地名が書か
れている。中心に中込、四方八方を囲む山の外側には信州の地名、
もっと外側には、横浜、札幌など日本の都市の地名、さらに外側
にサンフランシスコ、ワシントン、メルボルン、ケープタウン、
マドリード、ハンブルグなど、世界の都市の地名が書かれている。

八角形の天井に書かれたのは、信州中込を中心とした世界図なの
であった。
  
 おそらく普段は、子どもたちが立ち入りを禁じられていたこの太鼓
 楼。「ひとすじの道」には、卒業を控えた子供たちが、先生に連れ
 られてここに昇り、中込の向こうには、広い世界が広がっているこ
 とを、感動とともに知る場面が描かれていた。
  
  清集館で鯉料理を食する。
  佐々木都さんは、清集館の女将さん。鯉料理が名物と聞きつけ、
 昼食をいただく。まずは鯉の甘露煮の大きさに驚嘆する。直径10
 ンチを超えていただろうか。ウドの炒め物、緑の菜など野菜料理の
 盛り合わせ、さらにみそ味の鯉こく。
 独特の香りの鯉料理はやまねこの大好物である。

 料理を堪能したころ、佐々木さんが、丸岡秀子の思い出話を語って
 くださる。思い出の写真が拡大して展示用に保存してあるのを眺め
 る。せいたかさんが、ビデオカメラに収めている。この映像を、
 526日の勉強会で映写しようとの目論見である。

 やまねこ一行の慌ただしい日程にもかかわらず、泰然と構えて良
 い話を語ってくださった佐々木都さん。旅館の経営に長年携わるこ
 とで自身をきたえ、内面をつよくした女性。旅館経営も、教師の仕
 事も、どちらもサービス業。どうやって、それぞれの場で、人に接
 したらいいのか。こんな切り口の話が伺える新しいロールモデルと
 して、これからも臼田通いをしなくては、とやまねこは思ったので
 した。
 
 ●午後には、高速道路経由で、上田の別所温泉付近、前山寺と無言
館を訪問した。そこにはまったく別の時間が流れていた。

526日(土)「丸岡秀子ひとすじの道」は500円の有料であ
る。前売り券には八角形のマークが描かれ、中に白抜きで「ちの男
女共生ネット」の文字が書かれている。

切符はせいたかさんのデザイン、印刷。八角形のマークは、丸岡秀
子の通った、中込小学校の太鼓楼から取ったシンボルマーク。この
切符は、丸岡秀子の著作をめぐっての今後のちの男女共生ネットの
活動を象徴しています。

どうか手に取って、眺めてくださいますように。


うらおもて・やまねこでした。   

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