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2012年11月30日金曜日

ジェンダー平等政策の公開質問状、長野4区立候補予定者4人宛て


@@@@やまねこ通信238@@@@


●ちの男女共生ネットは、衆議院選挙長野4区立候補予定
者4人に宛てて、公開質問状を出した。諏訪市役所での記者
会見室には、市民新聞、長野日報、信濃毎日新聞、LCVテレ
ビ、中日新聞の5社の記者が参加した。

脱原発すわ連絡会の公開質問状の次に、やまねこは質問状
を読み上げる。ネットの仲間みえこさんが同行。

諏訪地域で初めてのジェンダー政策についての公開質問。
同じ選挙区内市町村の、交流ある女性グループに対し、賛
同を呼びかけている。大勢の女性たちが、質問状への回答
を注目して待ち構えている。


衆議院選挙予定候補者様

降霜の候、ご活躍およろこび申し上げます。日頃より地
域のためにご尽力いただき、厚く御礼申し上げます。
 さて21世紀の最重要課題として男女共同参画基本法施行
 後12年、社会のジェンダー平等は遅々として進みません。
 不況下、「男の仕事だってないんだ。女の仕事なんか」
 と「景気回復後」に解決は先送りされ、独身女性の1/3
 高単身女性の半数が貧困との現実にも対策はゼロです。
 結果、先進7カ国の一でありながら現在、男女平等指数
 世界135国中101位に甘んじています(世界経済フォー
 ラム2012年)。
私たちは女性の力を国政に反映させ、あらゆる政策決定
の場に女性の参画を進め、雇用の男女均等待遇を実現し、
安心して子育てができる社会づくりに向け、国会議員を
目指す候補予定者がどんな意欲と政策をお持ちであるか
お尋ねしたいと考えます。
 このため、公開での質問をさせていただくことになりま
した。以下のことに関して考えをお答えくださいますよ
うにお願いいたします。
 回答は126日(木)までにお願いいたします。なお、
 質問内容と回答の有無及び回答は全て公開させていただ
 きますのでご承知ください。
 現在同選挙区市町村の女性団体に公開質問への賛同を呼
 びかけております。賛同団体、個人について、後日ご連
 絡致します。

 記

 1    社会におけるジェンダー平等、女性の雇用、子育
  てに対し、どんな考えをおもちですか?           

  以上

 ちの男女共生ネット代表・氏名
 連絡先: 住所
 電話・FAX:番号      e-mail:アドレス


なお、以上の質問に対し、郵便、FAX、メールにて回答
をお送り下さるように依頼。

●昨日、公開質問状を出すことについてネットの仲間に相
談した。大賛成!との声がやまねこの背中を押した。

記者会見の模様が、どのように報道されるだろう?またい
つごろ、どのような回答が送られてくるだろう?
団体、個人をとわず、この公開質問状をだすことに賛成の
方は、どしどしメールをお送りくださいますようにお願い
いたします。


うらおもて・やまねこでした。


2012年11月28日水曜日

嘉田由紀子滋賀県知事「未来の党」、東京都知事選候補宇都宮けんじ氏ジェンダー政策を取り込む 


@@@@やまねこ通信237@@@@


「今のままでは選ぶ政党がない。本当の第三極を作って欲
しいという声に応え、新しい党を作る」と嘉田知事は「日
本未来の党」の結党を表明。「卒原発」を柱にする。ミス
ター新エネルギーの飯田哲也さんが代表代行。今朝の毎日
新聞一面トップに大きな写真。

「生活が第一」の小沢一郎グループ、「脱原発」の河村名
古屋市長グループとも合流の予定。

衆院解散総選挙の12月、自民の優勢が伝えられ、かつての
亡霊が復活するのではないかと気の重い毎日だった。一旦
は圧倒的優勢を伝えられた橋下徹+石原慎太郎の維新の会。
けれど、これで「第三極」が二つに割れた。

政策は二の次、「原発なんて小さな問題」と公言し、日本
の核武装化を開始して北朝鮮に対抗しようとする石原前都
知事と、その集票力に群がる者たちの動静ばかりが報道さ
れ、次の総選挙はいったいどうなるんだろうと、やまねこ
は危惧していた。だからまずは「第三極」が割れたことに
ホットした。嘉田由紀子知事に、感謝したい。

●東京都知事選立候補予定者の宇都宮けんじさん、ジェン
ダー平等政策を取り込む。

東京都知事選立候補予定者の宇都宮けんじさんは、政策リ
ーフレット「希望の政策」(8項目)を発表した。けれど、
その政策リーフレットにジェンダー平等についての項目が
立てられていなかった。そのことに対して、少なくない批
判の声が集った。

しかし本日発信の「希望都市、東京へ。宇都宮けんじ通信」
20121127日号)では、ジェンダー平等の政策が取り
込まれた。「希望の政策 11」の項目は「女性の力を都政に
反映」というもの。

希望の政策 11
女性の力を都政に反映
あらゆる政策決定の場に女性の参画を進めます。ウィメン
ズプラザを拠点に男女平等を推進、貧困に苦しむひとり親
家庭への支援と、雇用の男女均等待遇を実現させます。

以下、「希望都市、東京へ。宇都宮けんじ通信」(2012
1127日号)に「希望の政策」の全容が掲載されています。
http://www.labornetjp.org/news/2012/1353991314888staff01
このURLをペーストして訪問してください。

宇都宮けんじ氏は、女性たちの批判をしっかり受け止め、
新しい政策にジェンダー平等を取り込みました。有権者は、
こうした機敏さに注目します。

小出裕章さん、田中優さん、小澤俊夫さんから熱い応援
メッセージが寄せられています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
・私は政治に絶望し、政治には関わらないと公言してきま
した。選挙に行ったこともほとんどありません。もともと、
私以外の誰かに私の意志を代弁し てもらう気持ちもありま
せんでした。今回の都知事選挙に、宇都宮さんが出てくだ
さったことをありがたく思います。私は東京都民でなく、
投票に行か れませんが、もし都民であれば、消去法でなく、
迷うことなく宇都宮さんに私の1票を託します。
(小出裕章・京都大学原子炉実験所助教)

・ぼくは宇都宮さんと国会の参考人で一緒になったことが
あります。すばらしい人柄で、最初からとても好きになり
ました。会えると思わず微笑んでし まう相手っていますよ
ね、そんな感じです。ぼくにとっては有名人なのに、世間
ではあまり知られていないそうです。どこからでもいいか
ら調べてみて ください。絶対好きになると思います。だか
らひとりでも多くの人に伝えてほしいのです。ぼくは宇都
宮さんは、どんなときも信頼し続けることのでき る人だと
思います。
(田中優・未来バンク事業組合理事長)

・宇都宮けんじさんは、反貧困、反原発そして護憲を貫い
て活動してきました。
今こそ東京都を明るい、暮らしやすい町にするために宇都
宮さんを都知 事にしましょう! 原発をなくし、再生可能
エネルギーをめざす最先端の東京都を宇都宮さんを先頭に
立てて作っていきましょう! 放射能まみれの土 と空気を
子孫に残してはいけないのですから。
(小澤俊夫・昔話研究者)

●明日、脱原発諏訪連絡会は、長野4区の立候補予定者の
原発政策を問うための公開質問状を出すにあたり、記者会
見を行います。

同時に、ちの男女共生ネットも、ジェンダー政策について、
立候補予定者に公開質問状を出す予定です。



うらもて・やまねこでした。

2012年11月25日日曜日

郷土料理と3分トークでお腹いっぱいの日、次回のご案内、松本女性センターでのわくわく提案



@@@@やまねこ通信236@@@@


昨日、連休中日の11月24日(土)、ちの男女共生ネット
は、地域の「料理の賢女」に学ぶ「料理の会」を開いた。
料理の賢女に指導を依頼。古い英語でwise woman「賢女」は
産婆さんの意味。本日生まれてくるのは子供ではなく、美味
しい郷土料理。

前日から細心の準備をしてくださった「一日家元」「料理の
賢女」ふさこさん、しょうこさん、はるこさん指導のもと、
参加者全員が協力して郷土料理を作った。
参加者24人+子どもたち。遠く、松本、岡谷からも。

メニュー:のた餅(塩味)、えごま餅、塩イカキャベツの酢
の物、油揚げ巻き、豆腐汁、夕顔煮物、寒天寄せ2種。
司会はみえこさん。初めての担当だったけれど、落ち着きが
あって聞きやすかった。
開始は10時、代表あいさつ「戦中戦後の貧しい時代、食事は
女たちの手作りで家族揃って行われた。今日この時代を懐か
しむ声が多い。けれどそこに女たちの無償労働が隠されてい
たことを忘れないようにしようね」。

「料理の賢女」の紹介、簡単な手順を説明。10時半料理開始。
参加者全員、エプロンと三角巾とマスクそれに薄いゴム手袋。
4つの調理台別に、のた餅、えごま餅。イカとキャベツの酢の
物。油揚げ巻き、豆腐汁を作る。お子さんたちも、枝豆、え
ごま摺りのお手伝い。11時半ころに完成し調理台を片付け、
お皿を並べて食事を開始。

のた餅の塩味が、えごま餅や油揚げ巻きの甘味を引き立てた。
イカとキャベツの酢の物がさわやか。思いがけず、夕顔煮物
も登場。肉入りの豆腐汁は初めての味わいで美味しかった。
寒天寄せは2品。この他に、リンゴ、チョコレートなどの差し
入れが相次いで、食卓が賑やかになり、皆の気持ちが盛り上
がった。

10分ほど食事が進んだところで、「十代に何を食べたか」の
思い出話トークを13分で。「子ども時代、体が弱かったの
で、シマヘビの蒲焼を与えられた」「カイコのサナギだけで
なく、蛾になった成虫も羽をとって食べた」「お雑煮にウサ
ギ肉を入れた」など、地域ならではの話が語られ、料理とと
もにお腹がいっぱいになった。

12時半、デザートに手が伸びる頃、次回第五回勉強会の連絡、
市長との会談の報告をし、1250分に終了。時間の都合の付
く皆さんに後片付けを手伝っていただき、120分頃に全部
終了し会場を後にした。

終わってからの感想:
運営側メンバー「あっというまに、片付いて、思ったより、
楽だったね
参加者から: 
「こんなに賑やかなのに、会費500円でいいのかしら?」
「年に一度は、料理の会があったらいいね」
「多数の出席者が生き生きと活動されていて「すごい!」
と圧倒された」

●たったいま、運営側のつねこさんから、タイムリーにも、
手応えある感想が寄せられた。

「料理の会は特別の指示があったわけでもないのに参加者が
それぞれに楽しみながら興味のある所で活躍してくれたと思
いました。
3分間トークは話を聞いているうちに自分の子ども時代の事
を更に思い出し、もっと聞きたい話したいという思いに駆ら
れました。

以前私は、昭和30年代頃までは家庭でとり行われるのが当た
り前だった茅野市内の婚礼について、お年寄りに聞き取り調
査をしました。その折、婚礼のご馳走について、メニューも
さることながら、調理人はプロとは言わずとも、料理にたけ
た男性が身内にいればその人に、いなければ知り合いに依頼
したという話を聞きました。女性は言われたものを言われた
とおりに作ったり並べたり、あくまで助手的存在のことが多
かったようです。

日常の食事は女性がその役割を担っていても、女は大切なイ
ベントには責任者になれない、まさにシャドウワークだった
ことがうかがえます。ご飯のおかずは女が作っても、料理は
男のもの、社会情勢や意識として、男が日常の食事作りに手
を出さない(出せない?)状況が続くうちに、食事に関して
自立できていない男が増えてしまったと思います。

現代の、特に、高度成長期に企業戦士だった男性は(金銭的
な面はともかくとして)、日常生活の自立ができていない人
の方が多いと思います。ジェンダー差の問題は男性にとって
も深刻な問題だと思います。

今回の料理の会を通して、楽しい思いをしたと同時に色々な
事を考えるきっかけになったと思います」。(以上)

●トークの会で、正月や年越し料理を男性が作ったとの話が
一二人から語られた。けれどそれは男性が一家の「ハレ」の
行事の祭司の役割を果たしたという意味で、日常の「ケ」の
食事の作業分担とは、意味合いが真逆であることに注目しな
くてはならない。「ハレ」の行事で、女は下女役だったこと
は、つねこさんが伝えるとおりです。

「ケ」の食事から遠ざけられ、食習慣の自立のきっかけを男
性が奪われたとしたら、「家制度」の残存、遺制が社会にも
たらした傷跡は相当、根深いものがあることがここであらた
めてわかる。

会場では、さまざまな活動の情報交換が行われ、「フィリ
ッピン女性の人権を守るブックロードのバッグ」も何点か
買っていただいた。

次回、第五回勉強会は、来年、2013年(平成25年)
1月26日(土)午後1時~午後4時の日程、会場は茅野市
家庭教育センターで開きます。

テーマは「ジェンダー差別の根源・女性と経済・新聞切り
抜き勉強会」です。後日、中身をくわしくお伝えします。


●先週11月18日(日)午前10時、松本女性センター
・パレア松本での講演が終わりました。

意欲の高い参加者が熱心に耳を傾けてくださり、大きな広
がりある質問が寄せられ、気持ちよくお話することができ
ました。お話した内容は、次のようなものでした。

1    われわれの社会は、男女平等だろうか?
2    ジェンダーGenderとは何か?
3    男女共同参画なしでは、今後社会が成り立たない。
4    ジェンダー差別はどうして解消されないのか?
「経済不況で、男だって仕事がないんだ!」への世論誘
導、「男性稼ぎ主・幻想」、新自由主義と、新保守主義
の壁。女性の貧困。

以上のことをお話し、最後に、社会の男女平等を進め、女
性が力をつけるための、3つの提案をしました。

1「主婦」の肩書をやめよう。
家業の共同経営者、または、「ちの男女共生ネット」の
ような市民団体の会員の肩書で活動しよう。

2「小さな勉強会」を作り、自分の「思い」を語り、仲間
  の考えを聞いて、「意見」として発言することを重ね
  てゆこう。

3 特定の問題を追求し「得意科目」を作って、人に語り
  伝える習慣をつけよう。行政の審議会、委員会の公募
  に応募しては参加してゆこう。
  
(このためには行政のあらゆる部門の担当者が「女性の有
識者リスト」を絶えず拡大し、継承するように心がけてい
ただく必要があります)。
  
この3つの提案を、今後、ちのの仲間にも呼びかけることに
しなくては。



うらおもて・やまねこでした。


2012年11月23日金曜日

「十代に何を食べたか?」四杯めおかわり、イベント資料はイラスト入りでバージョンアップ


@@@@やまねこ通信235@@@@

●明日11月24日(土)、午前10時より、茅野市文化セ
ンターにて、第4回、ちの男女共生ネット勉強会「料理の会」
を開きます。会費500円。託児無料です。

資料にステキなイラストが入りました。前回、イラストを入
れることを提案してくださったのは、たけさん。今回、イラ
スト協力をしてくださったのは、ならゆみさんです。
おかげさまで、目が覚めるような紙面になりました。

●「十代に何を食べたか?」の作文を募集しました。ちの男
女共生ネット第4回勉強会「料理の会」に出席される方々だけ
でなく、できるだけ様々な地域と時代にわたる方々に書いて
いただけるといいなあ!

こんなことをネットの仲間に呼びかけ、やまねこ通信で訴え
ました。やまねこたちの20年先輩、塩尻の女性グループ、
こさとさんが、早速、送ってくださいました。

富山県魚津市のはるみさんの寄稿は、やまねこにとり、サプ
ライズでした。あれほどにお忙しい中、昔の思い出を書き綴
てくださったとは!メールを受け取って胸が熱くなりました。

現在茅野市以外の地域では、諏訪市、岡谷市、塩尻市、松本
市、それに富山県魚津市、東京都調布市にお住いの方々が
ります。

筆者のみなさんが十代に暮らした地域は全国に広がります。
茨城県、千葉県、広島市、仙台市、相模原市、富山市、魚津
市、北海道士別市、安曇野市、長野市、下諏訪町、伊那市、
それに中国も。

送られた原稿がどれも、あまりに面白くて、やまねこはこの
一月、それぞれの作文の世界の船につぎつぎ乗り込んで寄稿
者の皆さんと共に航海している気分でした。

それでは、4杯目の「おかわり」をお送りします。

母の料理、父の料理(茅野市、30代前半、みどりさん
両親が共働きだった私の家では、母が「早いだけがとりえ
!」といって出す取り立てて名前もないような普通で健康
的な食べ物が多かったように思う。天ぷら、煮物、焼き魚、
千切りキャベツの上に細切れ肉を炒めたものをドンと乗っ
けたものなど。母の作る食べ物で印象に残っているのは、
とにかくあっという間に出来上がるということだ。仕事を
終えた足でスーパーで買い物をし、休む間もなく台所に向
かって夕食の準備をして、「ごはんだよ!」という手際の
よさにはいつも見とれるものがあった。もちろん味も悪く
はなかったし、すばらしいと思うのは、家には冷凍食品や
レトルトものの買い置きが全くなかったということだ。忙
しいからといって手を抜くことはなく、かといって凝りす
ぎもせず、子どもたちに栄養のあるものを食べさせてきて
くれたことに感謝します。
一方、たまに夜勤があった母に代わって私たち姉妹に食事
を提供してくれた父であるが、この人は掃除や洗濯は得意
なのだが、料理は60才を過ぎてもいまだ自立できていな
い。私たちが小学生だったある朝のこと、パンのおかずに
と目玉焼きを作ってくれた。作ってくれたのはいいのだが、
食べようと思ったらなんと黄身は固まっているのだが白身
は生のままであった。得意とするのは、ちくわの蒲焼。わ
ざとか失敗してか、いつも黒こげ。でも、姉と私は焦げた
ところがおいしいね、といって食べていたような気がする。
先日、私が体調不良で寝込んでいたら、5才の娘が「おか
ーさん、おとーさんがおひるごはんつくってくれたよ」と
報告に来た。何を作ったのか聞くと、ソーセージを焼いた
のだという。私の父と私の夫と料理の腕はいい勝負だ。次
に生れてくるのは男の子であっても女の子であっても、私
はせめて普通のものでいいから料理のできる子に育てたい
なあと思う。栄養バランスのとれたものを食べることは体
にとっても大事だし、自分で作れれば、安くて口に合うも
のが食べられる。


十代に何を食べたか             
(長野県下諏訪町、さちほさん、60代前半、茅野市在住)
 諏訪湖の近くで生まれ育った私、食べ物として鯉・わかさ
ぎ・ふな・えび等を煮付け、空揚げなどにして諏訪湖の恩恵
をたくさん受けた。この他に、つぶ・バカ貝と呼ばれた大き
な貝(私が小さかった頃、諏訪湖は遠浅で岸辺の砂浜を足で探
ると大きな黒い貝が沢山獲れた)。諏訪湖に注ぐ川では、うな
ぎ・ドジョウも獲れたし、沼地では牛カエルも、牛カエルは父
がかまどの火で焼いて食べさせてくれ、うさぎのような淡白な
味だったような気がする。
 牛カエルはゲテモノにあたるかもしれないが、はちのこ・い
なご・さなぎ・ざざむし、今では信州の四大珍味と言われてい
るうちのざざむしは天竜川で獲れるため諏訪ではなじみがない
が、はちのこ・さなぎ・いなごは煮付けて、栄養があるからと
言われ食べた。はちのこはご飯に炊きこんだ「すがりめし」が
おいしかった。
祭りや行事の時の思い出のある食べ物は、
下社秋宮の二年詣りに行き買ってもらったかや飴・豆板。お雛
祭りに祖母がほうろくでお米を煎って作ってくれたおこんめり。
祖母の姉が粟沢観音の近くに住んでいたので粟沢観音のお祭り
に呼ばれて行くと、近所のおばあさんが作ってくれたおまんじ
ゅう。上諏訪の母の里でお宮の夏祭りに作り持ってきてくれた
お餅(餅を赤紫蘇の葉で包んであった)。小学校の文化祭で食べ
たお汁粉、お汁粉には白菜の浅漬けがついた(お汁粉券を事前
に購入するが家族が仕事で忙しく行けない時には鍋を持って行
き家にもらって帰り家族みんなで食べた。)暮れの三十日には
家族総出で餅つきをした、のしもちだけでなく、豆餅・海苔餅
も搗いた。
 農家だったので家の周りや畑にはいろんな果物の木があった。
さくらんぼ、あんず、ぶどう、柿(甘柿・渋柿両方ともあった、
諏訪は寒いから甘柿はできないと言われているが、いまでも毎
年成ってくれている)渋柿は干柿やお炬燵に入れて作ったさわし
柿、熟し柿を凍らせてシャーベット状にしても食べた。
 夏は近所の家から桃を沢山いただき、生でも食べたが缶詰の
ようにシロップ煮にして。
夏の思い出のあるものとしては、やはり近所の牛を飼っている
家からいただいた牛乳で母が作ってくれたカルピス風な飲み物
(牛乳を沸し、クエン酸と砂糖を入れたもの)。
 売りに来た物で特に懐かしいものは、ロバのパンとオリエン
タルカレーの移動販売車。
両方とも音楽を流してやってきた、音楽につられてたくさんの
人が集まっていた記憶がある。
 思い出を辿ってゆくと、きりがなく次々と思いだしてしまう、
のでこの辺でお仕舞にします。


10代に何を食べたか・・・          
 (宮城県仙台市、みえこさん、50代後半、茅野市在住)
10代に何を食べたか?と問われ、私の頭にすぐ浮かんだのは、
あのまずい「学校給食」の事だ。6年間毎朝、学校に行くのが
イヤでイヤでしょうがなかった、その最大の理由が学校給食だ
った。これを牛乳と呼ぶの?という代物の脱脂粉乳。パサパサ
したコッペパンと食パン。のびきったゴムのような麺類。毛の
生えている肉。古い油臭いマーガリン。ただ甘いだけのジャム
・・・今考えてもゾオーとする!!あれを「食べ物」とは私に
はどうしても思えなかった。「どうしても食べられない」とい
って残そうとすると、「給食を残すことは悪いことだ」と先生
に叱られ・・・私にとって給食の時間は、まるで拷問のようだ
った。
だから家で母が作ってくれる野菜や魚中心の素朴な食事は何で
も、とてもおいしく思えた。そして何か行事やお祝い事がある
と、決まって作ってくれた「おいなりさん」と「太巻寿司」、
そして手作りのカスタードクリームにフルーツをたくさんいれ
た「フルーツサラダ」が私のお気に入り。
そして時々連れて行ってもらったデパートの大食堂で食べた、
緑あざやかな「クリームソーダ」「ホットケーキ」「マカロニ
グラタン」が、あの当時、ああーおいしいと思ったものです。


10代に何を食べたか
(神奈川県相模原市、ひさえさん、60代後半、茅野市在住)
悲惨な戦争が終り、育ち盛りだった私たち3人きょうだい(女
2、男1)は、ひもじかったという思い出はあまり持たずに育
ちました。たいした食べ物なんかなかったはずです。サラリー
マンだった父は、自宅の庭で少しばかりの野菜を育て、母は1
ロ先の商店へ毎日のように歩いて買い物に行っていました。
(車も冷蔵庫もなかった時代でした)。
今思えば、親は苦労していたはずなのに、私たちは食べ物につ
いて無知でした。世の中に与えられたもの以外に、もっとおい
しいものがあるなんて、知らずに育った子ども時代でした。そ
んな粗食のおかげで、みな元気にとび回っていました。その頃
は、農薬も化学肥料も添加物もなく、食べ物は全く安全なもの
ばかりだったのです。もちろん放射線も。それがいつの間にか、
店先に並ぶ食べ物が疑わしいものばかりとなり、安全な食べ物
を見つけ出すのに、大変な苦労をしなければ手に入らなくなり、
さらに遺伝子組換の表示がTPPに参加することによって、表
示すると違反となり、罰を受けるらしいということです。
人の命をつないでゆく安全な食べ物は、どこへ行こうとしてい
るのでしょうか?


伊那の四季
(伊那市、ようこさん、30代、母上60代、茅野市在住)               
春:フキノトウ、山菜胡麻和え、天ぷら
夏:あんずの漬物、梅酒、しそジュース、桑の実、セロリの粕漬
秋:いなごの佃煮、くるみ、焼き芋、きのこ、栗、あけび、むか
ごのご飯
冬:母:長薯ごはん、わかさぎの天ぷら、甘露煮、かぼちゃとあ
んこの煮物、リンゴとさつま芋の煮物、
       大根や白菜の漬物、野沢菜、甘酒(麹)
  娘:アップルパイ、豚汁、手打ちのうどん
四季を問わず:母上:塩丸いかの酢の物、絹の花(お蚕の幼虫)
蜂の子、寒天(フルーツ、人参、牛乳、黒糖、あんこ、くるみ寄
せ、赤色など)、自家製の卵
       娘:チーズケーキ、五平餅、甘酒(酒粕)、そば、
おやき
お正月:鯉の甘露煮、お雑煮(醤油味、みつば、鶏、四角餅、人
参、大根、葱)
参考図書:『カイコの絵本』きうちまこと編、1999年、農文協
サナギの佃煮(絹の花)信州地方などでは、カイコのサ
ナギが伝統的な食べ物として食べられてきたんだよ。魚や
肉の少ない地方では貴重なタンパク源だったんだね。
レシピ:サナギ:(生のサナギは味がしみにくいので、乾燥させ
たものをつかう。)量は好きなだけ。
醤油:ぜんたいにからまる程度。 油少々
1油を薄くしいたフライパンで、サナギをから煎りする。
2そこに砂糖を入れ、さらに醤油を入れて、煎り付ける。

*母上と協力して作成してくださってありがとうございます。伊
那地方の四季折々の食事が本当に良くわかります。カイコ、蜂の
子、正月には鯉の甘露煮。地域色を反映した掛けがえないないメ
ニューですね。


イカ入りチャーハンとカレー          
(富山市・60代後半、きょうこさん、茅野市在住) 
富山市旧市街の東端、富山駅から1キロ離れた土地に4歳のころ疎
開先から転居した。商店の立ち並ぶ旧北陸道の稲荷町通りから徒
3分。米の配給が不足し、その代わりに砂糖が配給になったこ
ともある食糧難の時代だった。
ある日、お昼時に外から戻って、飯台の横にあるお櫃の蓋を開け
た。腹ペコだった。
「お昼、なにけ?あれえー、また芋なが?!」私は失望の大声を
あげた。すると母の叱声が飛んだ。
「芋でもなんでも、食べられるもんがありゃ、有り難く思われ!
!」
よほど、虫の居所が悪かったのか、母の迫力は凄まじかった。勢
いに押され、私は口をつぐみ、沈黙のまま味のしない芋を口に押
し込んだ。食べ物に好き嫌いはほとんどないが、これ以後、出さ
れる食事に不満を言ったことは一度もない。小学校入学前のこと
である。
小学校下級生の頃、稲荷町の大きな魚屋さんが大型自転車に魚箱
を幾段も積んで売りに来た。富山湾のどの漁港の水揚げかを大声
で唱える。大漁の日は声が高い。夕食を並べる母も同じ言葉を繰
り返し、大漁の浜のざわめきを伝えた。この頃私は、台所の流し
の横に立って、魚をおろす母の手元を毎日眺めた。小学校上級に
なる頃、私たちは、魚よりも肉料理が高級と思うようになってい
た。
「中国人は油一滴も無駄にしない」。母は口癖のように語り、天
ぷらの残り油でチャーハンを作った。チャーハンはネギや人参に
イカが入っていた。イカ入りカレーも母の発明だった。肉ではな
くイカの入ったチャーハンやカレーは、代用品のイメージが美味
さの満喫を妨げ、子どもたちにとって、「一家の秘密」だった。
けれど後年、イタリア料理にイカピラフなどがあることを知り、
肉が高級だった頃の母の知恵に密かに敬服したものだ。やがて魚
肉ソーセージが売り出された。ピンク色で胡椒と肉の香りを添加
したソーセージを5センチの斜め切りにしフライにしてソースで
食べた。新鮮な魚の料理よりもよほど美味しかった。味の好みは、
時代と年齢で大いに変化するものだなとつくづく思う。


ハンバーガー・食の年表紀元ゼロ年  
(神奈川県相模原市・たかこさん、50代後半、茅野市在住)
ハンバーガーが世にあったかなかったか、それが私の食の年表
の紀元ゼロ年だ。1971年、銀座にマクドナルド1号店がで
きた。翌年、大学1年生の私は、新宿を経由する通学途上でマ
ックやロッテリアで立ち食いをした。
十代以前と十代の最中は、ほぼ「紀元前」で、肉を渇望する時
代だった。日常の肉っけといえばメンチカツぐらいのもの。福
島浜通りの出身だが生魚を好まない母が作る料理は、焼き魚が
メインだった。郷土料理があるのかないのか、特に味わった記
憶もないので知らない。私の大学時代に母は料理教室に通いだ
し、やがて西洋・中華の料理の腕を急速に上げてしまった。こ
うしてますます伝統的和食郷土の味からは遠のいた。
18歳になるまで、肉料理は稀であった食卓の定番は、焼き魚。
秋刀魚・シャケ・アジ・ニシン・サバなどが入れかわり立ちか
わり並ぶ。小骨を喉に刺して泣く不器用な子供だった私は、少
し大きくなっても焼き魚恐怖症で、恐るおそる箸をつける有様
で、食べること自体を楽しめなかった。
食べやすい豚カツやすき焼きは、むかしは家庭ではたまにしか
出なかった。そういう時代、安価な立ち食いハンバーガーは1
8歳の私の楽しみになった。外国航路の船に勤務する叔父の家
で、中学生の頃に食べたデミグラソースのハンバーグステーキ
の味と重なり、ああ、これだと思った。その後は母に頼み、さ
まざまな肉料理が並ぶ「紀元後」になっている。 


中国青島・留学生Rさん  10代に何を食べたか?        
                                   (20代、大学生)
10代のときよく食べた料理はトマトと卵の炒め物です。トマ
トの酸っぱさで食欲がアップし、ふわふわの卵を加えてとても
食べやすくおいしい一品です。では簡単な作り方を紹介しまし
ょう。
 先ず、トマトを皮むきして、8等分に切ります。そして卵2
を茶碗にいれ、塩少々でかき混ぜます。最後ニンニク一片を細か
く切ります。
 準備が出来たら、まず卵を軽く炒めてお皿にとっておきます。
そして、油を軽く引いて、ニンニクを入れます。ニンニクが柔ら
かくなったら、トマトを入れて炒めます。トマトは生でも食べら
れるので、中火で2分ぐらい炒めたら塩と砂糖で味付けます。最後
に炒めた卵を入れて、軽く炒めて出来上がります。温かいご飯と
一緒に食べるのがお勧めです。
私が10代のとき親は仕事で忙しく、トマト好きの自分にとって、
手間をかけずに、簡単に出来るおいしい一品でした。


料理の賢女ふさこさん、つねこさんの対談  
昭和30年代の米沢の食べ物   (60代前半、茅野市在住)
私達は茅野市米沢で生まれ、小学校から11年来の同級生。
私達が子どもの頃はどこの家も自給自足で米や野菜には不自由し
なかったが、蛋白源となる食べ物はどうだったのかと、2人で思い
出してみた。

大豆、ササゲなど各種の豆類は自家製でいつも食卓に煮豆があっ
た。川魚、蜂の子の炒った物、赤ガエルの足を焼いたもの、イナ
ゴのつくだ煮、ドジョウの柳川風、ヤマカジカを乾燥させて焼い
たもの、シマヘビやスズメの焼いたもの、螺の味噌汁など山や川
でとった物を何でも? 食べた。(共通するもの、しないもの、
余所の家では食べていたけれど私の家では食べなかったものなど、
話がはずむ)。  

ふさこ「卵、鶏肉やウサギの肉なんかは、何かの時のご馳走で、
一羽つぶすと、肉だけでなく、軟骨を根気よく叩いて団子にし、
汁に入れたりと余すところなく利用した」
つねこ「鶏団子は家でもお爺さんが大きな石の上で骨をたたいて
作っていた。おいしいけどちょっとざらざらするんだよね」
つねこ「塩沢の豆腐屋さんが週に一度位豆腐や揚げを売りに来た」
ふさこ「たまに納豆売りが、なっとなっとー! と声を張り上げ
て売りに来た。買いに行くと経木に包んだ納豆に、辛子かアオノ
リ、好きな方をそえてくれた」

まだ冷蔵庫がなかった。時々行商の人が持ってくる竹輪、クジラ
の肉、サメの塩漬け、塩イカなどがすごく美味しかった。

ふさこ「エゴマ、枝豆、ゴマ、クルミなんかを使っておはぎや白
和えなんかもよく作ったね」 
つねこ「私の家は周囲に一族が住んでいたから、ちょっとご馳走
らしいものを作るとすぐどんぶりやお重に入れて配り歩いたよ。
それは子供の仕事だった」

こうやって思い出してみると現在のように贅沢な食事はしていな
くても、結構ヘルシーな食べ物で、蛋白質の摂取もできていたよ
うに思われる。(以上)


●最後に、こうしたイベントにどんな意味があるのでしょう? 
明日のイラスト入り資料をそっと、開くと、「はじめに」の下に、
次のように、書いてあります。

●本日は、地域の伝統料理を共につくり、共に頬張りながら、
「十代に何を食べたか」を大いに語り合うイベントです。

海は遠くても、湖、川、山の幸が豊かな茅野、諏訪地方で、女た
ちが工夫をこらし日々いのちをつないできました。今日は地域の
お祭りで作られたメニューを、「料理の賢女」に教わりながら、
一緒に作りましょう。

私たちの中には戦中戦後の食糧難のため、満足に3食が得られな
かった時代の体験者が含まれています。「貧しい時代」、女たち、
母たちはあらゆる家事を手でこなしました。

一方で家族は共に食事することが一般的だったように語られてい
ます。けれどこの時代は、戦死戦災死戦傷抑留のため、痛みを抱
えた家族が多かったことを忘れるわけにはゆきません。

経済の高度成長期は、電気製品の普及の度合いで語られる「豊か
な時代」と呼ばれています。ところがその後の今日の食生活は、
カップヌードルに代表される「粗食」と「個食」の時代です。

こんな中で、「貧しい時代」のちゃぶ台を囲んだ一家の食卓は、
ノスタルジー(郷愁)の対象になりがちです。

けれど、かつての食事の共同性を支えた女たち、母たちの無償の
労働を、私たちは手放しで懐かしむことはできません。

産業革命以前や近代初期の肉体労働の時代を、いったい誰が懐か
しむでしょう。農業を代表とする重労働は男性ばかりが担ったの
ではありません。

出産育児家事をこなす一方で、女性は男性と肩を並べて労働しま
した。重労働を共にしながら、女たちは妊娠出産とともに、家事
育児介護を引き受けることが当然とみなされました。この時代に
「母が育児に専念」する家庭は、例外的存在でした。

ところが、ひとは誰しも母から生まれ、「子ども時代」に郷愁を
抱く「こころの仕組」をもっています。このことが、ある意味で、
女性の子育て家事労働の本質を、見えにくいものにしています。

つい最近まで、女たちは家の中の仕事も、外の仕事も、すべて無
報酬無記名のシャドウワークの中にいました。このことが女たち
の家庭と社会での立場を低くし、時に内面の力までも奪ったので
す。

伝統料理を作った女たちが何を思っていたのか、私たちは知りま
せん。けれど、彼女たちの生きた社会は、このような社会でした。

今日は料理の日です。料理をつくることは本来、楽しい作業です。
とりわけ、仲間と共に作る料理は祝祭的です。今日は、茅野の伝
統料理を、「一日家元」である「料理の賢女」指導のもと、存分
に楽しみ、存分に、味わってくださいますようにお願いいたしま
す。



うらおもて・やまねこでした。