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2012年11月22日木曜日

郷土料理と「家元」の誕生、「十代に何を食べたか?」3杯目の「おかわり」


@@@@やまねこ通信234@@@@

今朝8時半ごろだった。車内の温度計は零下2度。
9時から、ちの男女共生ネット、1124日(土)第4
勉強会・料理の会「十代に何をたべたか?」のメニュー
会議を開催、8人の仲間が参加。

献立は、のたもち、えごまもち、塩イカとキャベツの酢
の物、油揚げ巻、肉入り甘み味の豆腐汁、寒天よせ。

●メンバーが集まって、料理の話を始めると、同じメニ
ューでも、家庭によって作り方、材料、味付けに、様々
な違いがあることが判明。当たり前のことである。

話は変わるが、結婚して他の家へと入ってゆく女たちに
とって、義母との台所での「闘争」は大きな試練の場で
ある。

「闘争」の生まれる切っ掛けの多くが、料理の仕方、味
付けに関して、「私の仕方が正しい」「お前は間違って
いる」という、「正統」をめぐっての闘いであることは、
やまねこがいくつもの家庭でいくども目の当たりにして
きた通りである。

「正統」が登場すると同時に、「異端」が生み出される。
味付けの「正統性」の主張はえてして、味付けをする「
家」の正統性、家が生み出す親族の「人格」の正統性に
まつわる議論に発展することは、少しも珍しいことでは
ない。

その結果、毎日の台所で、「このような料理をつくって
恥じることのないAの家の者は全員、愚劣だ」と、陰に
陽にほのめかす矢のような言葉が交わされることも日常
茶飯事である。

ちの男女共生ネットの仲間たちは、こうした「闘争」の
可能性を未然に避けた。それぞれの料理を担当する「料
理の賢女」を4人選び、全面的に信頼することにした。

4人の「料理の賢女」には、外野席からどのような「異論
」「反論」が投げられても、恬としてこだわることなく、
「自分の家の料理」を黙々作る様にお願いした。

当日は、それぞれの「料理の賢女」が「家元」なのである。
誰かの家で日常的に食べられている料理が郷土料理である。
各家庭が「家元」である。その正統性を示す根拠は、調理
する人々自身が調理し続けている事実以外に存在しない。

外部の誰かに、「正統」の「権威」を押しいただく必要は
い。
この郷土料理の多様性の水平な広がりを、垂直軸に置き換
え、上下の価値をつけたところに、「家元」が誕生する。
自らを頂点に位置づけ、そこから利益を得ようとする縦軸
の「家元制度」が生み出された途端、真と偽、正と負、
と劣の価値が二項対立として生み出され、求心力と排除の
力が発動する。

京都の料理に「家元」がないと同じように、茅野の郷土料
理にも「家元」は存在しない。
だからこそ、1124日の料理の会では、4人の「料理の賢女」
に「一日家元」になっていただく。

「家元」に対して、誰ひとり、「ああしろ!こおしろ!」
との咎めだてはできまい!当日は、差異を楽しむ約束の一日
となる予定である。どうか、お楽しみに!

●次は、「十代に何を食べたか?」三杯目の「おかわり」
です。

ヒグマの好物と北国の珍菜   
(北海道士別市、ふじこさん、60代後半、調布市在住)
北海道、1954年7歳~12歳頃の話です。
子供の頃、自宅近くにヒグマが飼われていて、私の友達だっ
た。
ヒグマの好物にコクワ(サルナシ)、山ぶどうがある。コク
ワはキーウイより小さく形も味も似ている。米びつに保存す
ると熟して一層甘くなる。山ぶどうは、瓶に詰めて棒で突つ
き発酵させて葡萄酒にする(発禁だった?)この時(7歳)
すでにお酒と発酵食品に目覚め、後に藍染め発酵の神秘の世
界に導かれる始まりだったかもしれない。
キノコの季節になると思い出すのは、郷里北海道の山菜採集
に野山を駆け回った事だ。落葉キノコ、ぼりぼり、ラッパし
めじ。7歳頃から山入りに夢中。小学校のあだ名は「ウルシ
女」(山に入る度に漆負けで体中湿疹まみれだった為)。他
にふき、ワラビ、アイヌネギ(別名行者ニンニクはアイヌを
差別して行者にしたとも)。珍品の山わさび(西洋わさび)
は土手で掘って来て、擂って白飯にかけて食べる。「野山を
駆けっこし、森に入る」皆これすべて現在、古代の繊維を探
求する源になっている。
 
*染織の仕事の原点が、ヒグマと親しんだ過去にさかのぼる
とのお話。野山を駆け回るのは子ども時代以来とのこと。


10代に何を食べたか?
    (広島市、としえさん、50代後半、松本市在住)       
幼い頃の食生活が成人になって大きく反映することを痛感し
ています。食育を言われる昨今、食事での躾、マナーも含め
て重要だと思います。さて、西日本・広島で10代を過ごし
た私は、やはり魚は生きの良い物を食べていました。印象的
なものは、漁師さんが釣ってきたしゃこを港で茹でて売って
いたことです。(ました)。それを買って来て、茹でたてを
食べたときの(て)美味しかった事!又、瀬戸内海のたこは、
あまり大きくなく、歯ごたえがあり、とても味わいがありま
した。
肉は西の方は牛肉の文化かと思います。松本に嫁いで初めて
食べたカレーが豚肉だったのには驚きました。広島では牛肉、
時には我が家は牛すじで作っていました。牛肉料理で好きだ
ったのは、牛肉のテールスープです。時間をかけてことこと
煮たテールスープは絶品でした。近所にお肉屋さんがあり、
テールが入った時は、母が作ってくれた思い出があります。
メニューはやはり父親中心でした。毎日晩酌する父がお刺身
(白身)を食べていました。父は鶏肉嫌いでしたので、鶏肉
料理はほとんどなく、煮物に入っているくらいだった記憶が
あります。広島では鶏肉の事をかしわと呼んでいたことを思
い出しました。これを書きながら、懐かしいテールスープが
食べたくなりました。

*関西と関東の味覚の違いは大きいですね。広島から松本へ
の移住は、カルチャーショックだったのでしょう。

10代に何を食べたか
 (岡谷市、まちこさん、60代前半、茅野市在住)
私は岡谷市に生まれ育ちました。子供の頃我が家では、毎
朝搾りたてのヤギの乳を飲んで一日が始まりました。近所
にヤギを飼っているお宅があり、そこのおばさんが朝搾っ
たばかりの乳をビンに入れて毎朝届けてくれました。朝食
には、これまた朝産んだばかりの卵や、近くの農家でとれ
た野菜が一杯入った味噌汁、煮物、漬物などが並び、カル
シウムを取るためだったのでしょうか、毎朝のように小女
子の佃煮を食べていました。  
 我が家の昼食は、決まって麺類でした。そのため結構大
きくなるまで、どこのお家も昼食には麺を食べているのだ
と思い込んでいたほどです。時には祖母が自分でおそばや
うどんを打って食べさせてくれて、皆で美味しいねと言い
ながら食べたのを思い出します。
 私のお気に入りのおやつは、刻んださつまいもの入った蒸
かしパン。時々中に黒糖が入っていて、食べると溶けた黒
糖が口の中いっぱいに広がって、とても美味しかった思い
出があります。
 夕食のメニューで好きだったのが、ミンチにした鯨肉を使
ったドライカレー。昔は鯨肉を使った様々なお料理を食べ
た記憶がありますが、今ではなかなか食べられなくなって
とても残念です。
 我が家は大家族で、しかも祖父が食事にうるさい人だった
ので、毎日祖母を中心に母や皆で食事の用意には十分な時
間をかけて、贅沢な物ではないですが、いろいろなお料理
を作っていたように思います。お陰で私も弟もまったく好
き嫌いなく丈夫に育ちました。その点はとても感謝してい
ます。

山羊乳で一日が始まり、うどんがお昼というお家の習慣。
時代に見合って手を凝らした料理の様子がよく分かって、と
ても興味深く思いました。


こども時代に食べたもの
(茅野市、ひろこさん、70代後半)
私が初めて父の郷里、茅野の御柱を観に、この地に来たのは、
昭和19年の春休み、国民学校4年生、10歳の時である。
始めての御柱は雪で泥んこの道を大きな柱を引っ張るだけ。
少しも面白くなかった。
同行したのは父と2歳上の姉と私の3人。父は戦時中の国防
色のカーキ色の詰襟だった。
父は4人きょうだいで、二人の姉が八ヶ岳のふもと茅野に住
んでいた。私はこの旅をきっかけに、同年の女友達に出会い、
それ以後伯母の家にずっと住むことを選んだ。伯母は料理が
上手、面倒見が良い人で、その後姿から私は多くのことを学
んだ。次に書く料理も、この伯母から伝えられたものである。
「いも転ばし」
終戦の時、私は5年生。4年生頃から毎日の食卓のおかずは
貧弱だった。薯転ばしのことを覚えている。材料はじゃが薯
五六個、人参、ねぎ少量。皮をむいた薯をつぶし易い程度の
横2㎝、縦1㎝の短形に切り、よくゆで、茹であがる寸前、
人参ねぎを小さく切って散らす。砂糖、塩、醤油などで鯵を
ととのえ、小麦粉を100CCほどを水でダマにならぬように
溶き、弱火の料理に入れて、かきまわす。油45滴入れると
滑らかな味わいになる。老人、子どもが大好きだった料理。
諏訪地方で一番のご馳走で客をもてなすのに最適な料理はの
た餅。別名ずんだ餅とも言われるが、正式にはのたである。
まず、うるち米半分糯米半分のご飯を炊き、すりこぎで(半
殺し)程度につぶす。畑でとれた枝豆(早生)の枝豆をさや
ごと、大鍋で柔かめに茹で、豆のみ取り出し、すり鉢、すり
こぎで多少の水を入れながらつぶす。(最近はフードプロセ
ッサー等で最初からつぶす人がいるが、ある程度つぶした方
が風味が損なわれない。)
つぶしながら砂糖と塩を適量に幾度も味を確かめる。熱い半
殺しのご飯にのたを載せ、食す。豆腐汁、漬け物などがあれ
ば最高。枝豆のある夏にのたを作り、味をととのえ、冷凍し
て、正月に食べる人もいる。
ねんびろ
終戦直後から一年くらい、田や畑の土手に自生する草ねんび
ろやかんず、板んどりなどの食べられる草という草は取りつ
くされて、土手や道端の食べられる草を探すのは困難だった。
5月、畑の隅や土手に自生するねんびろは酒を飲む人の好
物として料理された。群がって生えるねんびろを根っこごと
こぐと、白い丸い玉がついている。
この玉を丁寧に洗い、酢味噌和えするととても美味しい。又、
茎も茹でて3㎝ほどに切り、酢味噌で和えると一品となる。
ねんびろは強く、霜が降るころまで自生して良いおかずにな
るが、最近は見向きされないのは残念である。

*子ども時代に家族を選び直したとのお話しが驚異です。
茅野の玉川から茅野駅まで歩き、上諏訪駅下車の高校に通っ
たひろこさん、今も健脚とのこと。

食の思い出    (茅野市、ふさじさん、60代前半)
 昭和二十六年、小淵沢で生まれました。疎開してきた両親
は、五人の子育てに苦労を惜しまなかったようです(私は末
っ子)
・朝のめざまし:囲炉裏の中から、さつまいも。兄弟で分け
合って少しずつ食べてから、朝の掃除、それから朝食でした。
・行商:月に一,二回甲府から行商のおじさんが来ました。
その日の夕飯は、さんまの炊き込みご飯、釜の湯気と一緒に
いい匂い。
・塩むすび:よく焚き木拾いに持って行きました。
・カヤの実:庭には大木のカヤの実、広がった根っこの上で
大人のお喋り、子どもの本読み、おやつを食べ、語り、雨宿
り、時々実が落ちてきて我先にと追いかけました。
あの頃は、野山、田畑、川、池、土手にもシンプルな食材が
溢れていました。

*あたり一面、食べ物にみちあふれた自然界の情景が眼に見
えるようです。


●この後に、もう一回、「おかわり」をお送りいたします。


うらおもて・やまねこでした。







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