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2013年12月31日火曜日

やまねこ通信291号:『あまちゃん』は原発事故のレティサンス、あこがれの雑巾がけ

@@@やまねこ通信291号@@@

足の踏み場がなかったやまねこの棲家のリビング。少しづ
つ雑物(ぞうもつ)がしかるべき場所に収まり足元が広く
なった。今日は板張りの床を雑巾がけ。

足の手術、入退院が終わったらいちばんしてみたかったこ
と。それは自宅の床の雑巾がけであった。

成瀬巳喜男の映画で芸者の置屋が舞台の『流れる』という
作品がある。主人公の女中春を演じた田中絹代が雑巾がけ
をする。こまめにバケツで雑巾を洗い、家の隅々を拭う日
々。幸田文原作であった。

『流れる』の春は職業として雑巾がけしていた。春の身体
の動きは今や異文化といえるかもしれない。

やまねこは子ども時代、家庭と小学校で義務として雑巾が
けをした。
その後掃除は掃除機や化学モップの時代になり水ぶきの雑
巾がけをした覚えはほとんどない。

●ところがである。
足の骨腫瘍での入退院後、要支援1の認定を受けた。ヘル
パーさんが週1回1時間訪問するサービスの受給者になっ
た。
ヘルパーさんは掃除機の入りにくい場所を、濡れ雑巾でさ
っさと拭いてくださった。

仕事ぶりを眺めてやまねこはいたく感銘しそして羨望した。
『流れる』の田中絹代の所作を思い出した。身体が回復し
て中腰での動作に無理がなくなったら、是非とも自宅の床
の雑巾掛けをしなくては。

あこがれの自宅の床板の雑巾がけ。

今日、雑巾がけの念願がかなった。子ども時代の同じ身体
所作の記憶がよみがえる。小学校の長い廊下を子どもたち
が一列に並び、両手で雑巾を押さえ、腰を高々と持ち上
膝を曲げて走った光景を思い出す。

●雑巾がけをしがてらテレビをつけた。NHK朝の連続テレビ
小説、半年前の『あまちゃん』の再放送をしている。解説
付きのダイジェスト版である。

耳で聞き流し時折画面に眼をやって飛ばし見するうち、あ
らためて大ヒットの理由が理解できた。

『あまちゃん』=東日本大震災-東電福島原発事故ではな
いのか。

『あまちゃん』に原発事故が描かれないことはすでに指摘
されている。作者宮藤官九郎がおよびNHKが原発に直面する
ことを回避しているとの批判も目にした。

けれど、今日、雑巾がけしながら『あまちゃん』を飛ばし
見しやまねこは思い直した。『あまちゃん』は原発事故に
対する修辞学でいうレティサンスの表現を選んでいるので
はないだろうか?

レティサンスは「黙説法」または「故意の言い落とし」と
呼ばれている。これは筆者が自分の主張の核心をあえて語
らないことで、読者にその問題の欠落を意識させ、結果、
語り手の問題に対する関心の高さを強調する修辞法である。

原発事故がなかったらどんなに良かっただろうね!
地震と津波だけだったら、地域の皆で力を合わせて「絆」
の力で回復できたんだ!そのためだったら、どんなことだ
ってするよ!!

こうした共同の念願の結実したファンタジードラマが『あ
まちゃん』だった。頑張ればなんとかなる。夏バッパが大
きな声をだすだけで、ガレキが片付く。

もしもそうだったらどんなに良かっただろうね!この仮定
法過去完了の思いが全篇に通奏低音として流れている。過
去にすでに起こった事実と反対の想像を語る表現法。深い
悔恨をこめて想起する時に用いられる。

●原発事故はどんなに力を合わせて頑張っても、『あまち
ゃん』と同じわけにはいかない。目に見えない放射性物質
の測定値が人々から住まい、学校、職業、自治体を奪った。
いつ回復できるか誰にも分からない。

メルトダウンした原子炉が爆発した時期に被災地に滞在し
た人々は、今後何世代にもわたり健康被害の心配を止める
ことができない。

原発事故こそは住民のつながりを分断してしまった。「絆」
なんてそらぞらしい言葉とは無縁の境地に、被災者たちは
投げ込まれている。

●連続テレビ小説『あまちゃん』の大ヒットは、ドラマを
見ることで、東日本大震災が力を合わせれば何とかなるも
の、コントロール可能なものだと人々が思いたかった気持
ちを現わしているのではないだろうか?

もうひとつ、目に見える小さな行政へのあこがれが描かれ
ている。ストーブくんとゆいの父が代議士を辞任して市長
選に出馬し当選を果たす。地域住民の気持ちを知り抜いた
首長の登場。顔の見える政治が実現する。

顔の見える政治。責任の所在の明確な行政。
これこそ東電福島原発事故以後に起こった無責任と虚言の
横行する<原子力ムラ>の行動とは正反対の世界である。

●こうして見ると、『あまちゃん』の大ヒットは、原発事
故がどれほどこの国の人々の心の裏側を深くえぐっている
かを逆に証明していると言えるのではないだろうか?

『あまちゃん』の大ヒットは、「もう原発はゴメンだ!」
との人々の言葉にならぬ思いが、毎朝のようにレティサン
スという表現法で全国に投げかけられ受け止められた過程
とその結果と言えるのではないのだろうか?

やまねこは雑巾がけをしながら、こんなことを思った。

●念願だった雑巾がけも出来るようになった。これでほぼ
全面的に回復といって良いかもしれない。

春のように職業でもなく、子ども時代のように義務でもな
く、喜びとしての雑巾がけ。

今後は『流れる』の田中絹代扮する春になりきり、こまめ
に雑巾がを心がけられたらいい。これが来年にかけての
夢である。

このようにして今年の年末を迎えることができました。
ことしお世話になったみなさんに深く感謝いたします。
どうか良い年をお迎えください。


うらおもて・やまねこでした。



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