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2015年7月5日日曜日

やまねこ通信321号:12歳の岸恵子に、この国の男性はどうして追いつけないのか?


@@@やまねこ通信321号@@@
12歳の岸恵子に、どうしてこの国の男性は追いつけないのか?
集団主義の誕生と、主体的自由の墓場


女優でエッセイスト岸恵子は、12歳で空襲に遭った。地
域のおとなが指示した避難場所に背を向け、逆の方向に向
かって走り、自分で自分の命を救った。

「その日から、私はおとなになった。もうおとなの言うこ
とは信じまいと思ったの」

ここに、「おとな」の定義が示されているように思われる。
「おとな」とは自分の運命を主体的に選び取って自由を行
使するひとのことだ。

▲「日本には、どうしておとなの男性がほとんどいないの
かしら」?

それは男性たちが物事を自分で考え主体的に選ぶことをし
ないからではないのか、とやまねこには思われてならない。

「自分」で決めないとしたら、誰に決めてもらうのだろう?
会社、役所の中なら、社長、部長、課長、主任?学校なら、
校長、教頭、主任?大学なら学長、学部長、学科長?家庭な
ら父、母、妻、みんな?いや、テレビやインターネット?

ともあれ、主体的な「自分」ではなく、周囲のひとびとの
「空気」を読みながら何らかの決定をしてゆく、あるいは
しない。

これらを全部まとめると立ち現れるのが、「世間」と呼ばれ
るわやわやの集団である。日本の男性は、あらゆる物事の決
定において、「自分」ではなく職場の中の「世間」に伺いを
立て、判断を委ねる。自分という「個」ではなく世間という
「集団」と一体化し、解決をゆだねる。

集団主義の誕生であり、主体的自由の墓場の誕生である。

「世間」の言うことを聞いていれば、非難されることはない
し、ひとに迷惑をかけることもないだろう。
これがこの国の男性たちの立ち位置ではないだろうか?

▲自分で選ぶことのない男性たちが集まると、どんなことが
起こるか?やまねこ通信の愛読者の皆さんに分かりやすい例
をあげよう。

3.11原発事故の後、監督官庁である経済産業省の顔ぶれが少
しも変わらず、誰も責任をとっていないと伝えられる。東京
電力は社長が交代した。けれど引責辞任ではなかった。

霞ヶ関の「空気」がそれを許し、永田町も「世間」の様子を
見ながらぬらりくらりかわし、結局事故前と何も変わっては
いない。

▲自身のアイデンティティを変更しないことにかけて、恐る
べき自己保存能力を発揮する霞ヶ関という官僚集団。自分で
決めない男性たちの集団は海外からはどんな姿に見えるのだ
ろう。

「無数の触手を周囲に伸ばしどんどん巨大化するが、(責任
を取るべき)中心的頭脳を持たず、どこが頭か胴体か手足か
外からは誰にも分からぬ巨大な生きもの」。

この国の官僚機構を批判するオランダの政治学者カレル・ヴ
ァン・ウォルフレンは『日本・権力構造の謎』(1993年)で、
このように霞ヶ関を記述した。

▲組織の中だから仕方がない。個人の勝手は許されないんだ。
あんたらのような部外者には分からないだろうがね!自身の
正しさに懐疑の目を向けることのない日本の男性ならこう言
いそうである。はたしてそうだろうか。

▲ひとは誰でも基本的に「自由」の中に生き、「自由」の領
域をもつ。もちろんひとは親を選ぶことができず、子どもを
選ぶこともできない。ひとはこの世に投げ出される。

この投げ出された場で、ひとは様々な「役割」を担ってゆく。
家庭や学校や会社、地域、同好の士の集まりで役割を担って
社会生活をする。

けれど「役割」はいわば身にまとう「衣類」のようなものだ。
どの衣類を着るかは、自由な「主体」が選んでいる。「役割」
は、着る自由があれば、脱ぐ自由もある。プライベートタイ
ムには、昼間のスーツを脱ぎ去る。

「役割」と「主体」のあいだには、Tシャツのようなゆるゆる
の隙間があるはずなのだ。

主体的「自由」がなく、「役割」と自己が一体化したひとびと
がいるとしよう。このひとは、昼間の制服を家に帰っても着た
まま、入浴するときも寝るときも制服を着たまま、制服が皮膚
と一体化し、皮膚の一部になったひとびとだと思うといいだろ
う。

『天才バカボン』には家に帰っても制服を着てささいなことに
も銃をバンバン撃ちっぱなす警察官がいたよね。

▲この「主体」がもつ「自由」をひとはどれほど生かすことが
できるだろう。

組織の中にいるから何もできないのではない。
その行動を選ぶ時、小さな意味で自身の所属する組織、集団を
裏切るかもしれない。けれど自分が最も大切と思うことを選ぶ
行動の自由を行使していいのだ。

長い目で見て所属集団が救われるかもしれない。逆に所属集団
ではなく、敵対する集団のひとびとの生命を救うことにつなが
るかもしれない。このような選択をする自由が、誰にも与えら
れているのだ。

▲「こんなこと分かり切ってる!当たり前のこと言うな!」
こんな罵りの礫(つぶて)が、やまねこに向かって飛んでくる
ような気がする。

ところが、霞ヶ関の公務員でも国会議員でも、市町村の公務員
でも議員でも、大企業の幹部でも中間管理職でも、中小企業の
雇用者も被雇用者も、それぞれの生きる「世間」の「空気」を
読むことが皆のタメになる、「正しい」行動であるというエー
トスを、この国の男性たちは、社会に入ると学んでゆく。

所属集団という「世間」の指示にしたがい、主体的「自由」を
抑圧しなげうつことが、彼らにとって「おとな」になることな
のだ。

70年前に負けた戦争がどうやって開始されたか。国内の翼賛
体制を着々準備し戦端を開いた支配体制、食糧が国内に枯渇し、
南方の戦線に兵站を供給することができず餓死者のやまを築き、
全国の都市がつぎつぎ空襲にさらされても、「体面」(誰の?)
を重視し終戦協定を受け入れることができずに右往左往した戦
前戦中の支配体制こそ、所属する「世間」に従順に従うことが
「正しい」行動であるとみなす集団の生み出した産物ではない
のか。

一緒に戦争し、一緒に殺されるしかなかった70年前と変わら
ぬ社会体制を「美しい」とみなす安倍政権。自民党、公明党の
中にだって、「これでいいわけがない」と思う議員がいるはず
だ。

主体的自由の行動を、もっともっと起こしたらどうなのよ!

保守政党の制服が皮膚の一部と化してしまったのだろうか?

▲12歳の岸恵子は大人の言い付けに逆らい、自分の命を自分
で救うことで「おとな」になった。

世間の鼻息を伺う「集団主義」に与し、「主体的自由」をなげ
うつことが、「おとな」であると勘違いしているこの国の男性
社会。

12歳の岸恵子にこの国の男性が追いつけない理由は、こんな
ところにあるだろうと、やまねこには思われてならない。



うらおおて・やまねこでした。




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