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2015年8月19日水曜日

やまねこ通信330号:鶴見俊輔と「一番病」の学校エリート批判、誰でも入れる声なき声の会とベ平連デモ

鶴見俊輔と「一番病」の学校エリート批判、
誰でも入れる声なき声の会とベ平連デモ

鶴見俊輔が亡くなった。1922年生まれの93歳であった。「鶴
見俊輔に戦後世代が聞く」のサブタイトルを冠した『戦争が
遺したもの』(新曜社)を入手して読んだ。歴史社会学者で
大著『<民主>と<愛国>』の著者小熊英二が上野千鶴子に
声をかけ81歳を迎えた鶴見俊輔に戦争体験と戦後の活動につ
いてインタビューしたもの。2003年4月京都での3日間のイ
ンタビューが400頁の本となって2004年に刊行されたのだ。出
てから10年以上経っているが、この度読んで非常に面白かった。
鶴見俊輔を愛読してきたわけをやまねこは再認識。ここで、
その一部を紹介しよう。

鶴見俊輔は『思想の科学』編集者、ベ平連活動家。有名な論壇
人として生涯発言し続けた。やまねこは朝日新聞の論壇時評、
朝日ジャーナルの記事を愛読。60年代前半に講演を一度聞いた
ことがある。

▲母方の祖父が台湾総督府民生長官で満鉄初代総裁東京市長を
務めて伯爵となった後藤新平。父は著作家政治家の鶴見祐輔。
鶴見俊輔の生涯においてこの父は反面教師だった。

父祐輔は近代日本の「一番病」を体現する人。一高を主席で卒
業し東大を卒業(銀時計は間違い)。高文は2番で合格。官庁に
入れば東大の席次高文試験の成績でどこまで出世できるか決ま
り高文一番なら次官か大臣まではゆける時代であった(今日も
あまり変わっていないらしい)。

父祐輔は貧しい家の出身。勉強だけでのしあがり、それで後藤
新平の娘と結婚。俊輔は言う。「勉強で一番になった人だから
一番になる以外の価値観をもっていない。そういう一番病の知
識人が政治家や官僚になって日本を動かしてきたんだ」。

明治以後の日本では、一高や東大を出ての知識の体系を身につ
けた人が指導者になるとの回路ができた。学校に試験で入って
一番で出て、欧米の知識を並べて話せる人間が権力の座につく
という仕組み。

みんな試験で模範解答を書こうとする。自由主義が流行れば自
由主義の模範解答を書き、軍国主義が流行れば軍国主義の模範
解答を書くような人間が指導者になった。そういう知識人がど
んなにくだらないかということが、私が戦争で学んだ大きなこ
とだった。
この仕組みは日露戦争の終わった1905年ごろにできた。こ
の知識人とは「学校エリート」のことで、学校制度そのものか
ら生み出される人々である。

学校エリートは「先生が思っているとおりの答えをうまく察し
て、はいっ、はいって手を挙げた答えた奴。この優等生は中学
生になっても高校生になっても大学生になっても常に違う先生
に対して手を上げる。自由主義の先生にも軍国主義の先生にも
ね。そういう肉体の習慣が、学校の中にでいちゃっているんだ」

こうした身体の習慣を持つ人が「一番病」。「いったんこの学
校システムができると知識人の集団転向なんて現象は、当然で
てきます。転向したことを意識してない転向なんだから。常に
一番でいたいと思ってるだけなんだ」
『転向』という共同研究の大著は鶴見俊輔の代表的著作。

▲やまねこはここで一言を差し挟みたい。
学校の先生に模範解答を常に出す身体習性の持ち主は、目下の
ボスが最も好みそうな発言を上手に語る官僚になってゆく。そ
のひとりが礒崎首相補佐官であることに、みなさんお気づきで
あろう。「(憲法の)法的安定性なんて関係ない」と語った礒
崎のような人物は、「自分の思想」を積み上げているのではな
い。そうではなく、今ボスがいちばん喜ぶこと、一番アピール
することをさも自分の信念のごとく語るのだ。礒崎の語ったの
は、安倍政権のホンネである。「愛(う)い奴じゃ」とボスで
ある首相の褒め言葉が待っていると思うと、身体が動いてしま
う習性の持ち主。経産省の原発官僚たちも同じであろう。この
人々の特徴は、意識しないで行動しているから、発言の内容を
すぐに忘れてしまうこと。

この学校エリートたちは「自分で考える力」はないが、学習が
うまい。「けれど学習がうまい人は脇が甘くなる。教わってい
ないこと、試験に出ない範囲のことが出てきたらそれで終り」
と鶴見俊輔。

敗戦後、このシステムにひび割れができかかったが、「マッカ
ーサーの占領と日本の復興がひび割れを直してしまったという
気がする。マッカーサー自体が学校エリートで士官学校の卒業
式にお母さんに付き添われて(!)いった」。
「天皇と文部省と東大」という明治国家の三つの基本をそのま
まにすることが、統治や経済に効率がよかった。

▲鶴見俊輔の語る父祐輔が体現する「一番病」の考えでは、一
高は二高三高よりえらい。東大は京大よりエライ。さらに国立
大学が私立大学よりえらい。こうして「大学偏差値」が生産再
生産され、「私の出身大学は偏差値が高い。だから私はえらい」
と信じて省みることのない人々を量産してゆく。

将来の大臣候補を定めるために、「一番」を差別化する義務を
負った教育体制。ところが、この体制が社会の隅々にまで波及
効果をもたらす。

この社会では、「一番」と「一番でない人」との間に格差を設
け、社会の全員を垂直の基準にそって等級別にすることを余儀
なくされる。この制度の中にいることに気づかないでいる限り、
「学校エリート」である官僚体制(霞ヶ関)に国の政策決定を
委ねて不思議と思わない考えの人々が生み出されてゆくだろう。

礒崎首相補佐官は「東大法学部出身の優秀な官僚」という言葉
がまかり通る社会は、2015年の今日の、学制成立後110年目であ
っても、「天皇と文部省と東大」によって権威付けされた明治
初期の体制から人々の頭が解放されていない社会なのだ。

一方で、与党を批判するはずの「革新政党」においても、霞ヶ関
同様の「学校エリート」支配が行われていることは国会議員候
補者の経歴を見れば了解できる。

大資本の味方の自民党政権与党を批判するのだったら、「天皇
と文部省と東大」の権威を内面化したままの体制ではまずいよね。
この体制は必然的に男性支配に重なってしまうのである。

▲ところで鶴見俊輔は小学校を出て7年生の旧制高校予備門に入
学したが、母への反発から来る盗みと女性関係の放蕩のため、退
学処分になった。だから日本での学歴は小学校だけである。父祐
輔が息子の将来を心配して俊輔をアメリカに送る。結局彼は猛勉
強してハーヴァード大学を卒業。

鶴見俊輔が東大中心の学歴社会とそこから生み出される「学校エ
リート」支配を批判すると、「だってあなたはハーヴァード大学
でてるから・・・」と切り返されることがあるという。

この考えの行き着く先は、日本で一番えらい東大よりハーヴァー
ド大学がもっとえらいことになる。学歴社会が生み出す「学校エ
リート」支配をチャラにするのではなく、もっと、もっと、縦の
学歴ピラミッドをよじ登る情熱によってこの国が支配されている
ことは、自民党、民社党などの若手国会議員の経歴を見ると了解
できることである。

英語支配が強まるにつれこの傾向に一層の拍車がかかっているか
にも見える反面、そのキャリアを利用し内部情報を知る者として
政権与党批判を始めた人々が3、4人現れていることをやまねこは
楽しみに観察している。

鶴見俊輔に話を戻す。彼は『思想の科学』では東大を出た学校エリ
ートでない人々の思想を紹介することに尽力した。それが紙芝居作
者である加太こうじ等である。しかし「庶民を過剰に持ち上げる傾
向がある」との批判が上野千鶴子から。
                        
▲話を少し進めて60年安保のデモの話題にゆこう。
「小林トミさんがデモしたことがないっていうから、そういう人が
入れるものをやろうという話から、「声なき声の会」が起こったん
です。それまでは、共産党とか総評とか、組織のデモしか見当たら
なかったから」。

そして6月4日に小林トミが「誰でも入れる声なき声の会」という
プラカードを持ってビラをまいて歩いたら、どんどん人が隊列に加
わってきた。鶴見俊輔は「そういうことができるということに驚い
た」という。60年当時からこのようなデモがあったことはやまねこ
の知らないことだった。
「声なき声」というのは安保法案を強行採決した岸信介が、国会を
取り巻く安保反対デモの渦を前にして、「声なき声」が私を支持し
ていると強がりを述べた時の言葉。

▲さらにベ平連。
ベ平連の三原則はこんなだった。
1 やりたい者がやる、やりたくない者はやらない。 
2 やりたい者はやりたくない者を強制しない。 
3 やりたくない者はやりたい者の足を引張らない。

小田実が1970年ころに書いた言葉。
「何でもいいから好きなことをやれ」「他人のすることにとやかく
文句いうな」「行動を提案するなら必ず自分が先にやれ」

このベ平連のデモが広がって全国で何万人、何十万人も広がってい
った。
このあたりを読んで、やまねこも2、3回ベ平連の友人と一緒にデ
モに参加した当時を思い出す。

そうそう、やまねこは何らかの活動をするとき、意識することなく、
このベ平連の3原則を念頭においていたのだった。政治活動に深入り
したことは一度もないやまねこは、広い意味でのベ平連世代に重な
ることをこのたび自覚することができた。

▲次の日曜日822日には、
戦争法案廃案・阿部暴走政権NO!8・22諏訪地区総行動
が諏訪文化センターで午前10時~11時半、開かれる。

集会の呼びかけに既成左翼団体の色彩が残っているかもしれない。
けれど、やまねこたちの1000人委員会も呼びかけ人のひとつである。

これまでデモしたことが一度もない人がはいれる「誰でも入れる声
なき声の会」デモのアピールをしたらどうだろう。
このようにやまねこは考えている。

次回は鶴見俊輔の母との関わりについて読んでゆきます。



うらおもて・やまねこでした。


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