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2016年9月9日金曜日

やまねこ通信365号:八ヶ岳中央農業実践大学校に、前身、修練農場の歴史を公開するように要望書を提出する

@@@やまねこ通信365号@@@
八ヶ岳中央農業実践大学校に、前身、修練農場の歴史を公開するように要望書を提出する

やまねこの仲間、ちの男女共生ネットは、滿蒙開拓平和記念館へのバス
ツアーをした。総勢27人。第19回勉強会であった。それに先立ち、
全国最多の滿蒙開拓民、青少年義勇軍を送り出した長野県内に、滿蒙開
拓の史跡が残されていないかを『長野県満州開拓史』などの書物にあた
って調べた。

その中、農村更生協会が、滿蒙開拓に向かう人々を全国から集めて訓練
するために設立した八ヶ岳修練農場が浮かび上がった。現在の八ヶ岳中
央農業実践大学校である。今日、同校のHPを開くと、設立年代と旧名・
八ヶ岳修練農場の名は書いてあるものの、活動の実態が何も書かれてい
ない。

前身の修練農場の歴史、滿蒙開拓の送り出しにどんな役割を果たしたか
の歴史が空白で放置されているのはなぜだろう?不都合な歴史として隠
蔽されてるのだろうか。
戦後71年目を迎え、全国各地で戦争の歴史の見直しが行われている。
修練農場の歴史を明らかにすることは必然といえるのではないだろうか。
歴史の調査と公開を問い合わせる必要があるだろう。7月24日のバス
ツアー前、さらにその後の調査を重ねながら、やまねこはこう思ってい
た。

▲修練農場の歴史を公開してもらいたいとの要望書をまとめ、諏訪湖記
者クラブに呼びかけ、ちの男女共生ネットは諏訪市役所で記者会見をし
た。ネットの仲間たまきさんとやまねこのふたりだった。

▲8月14日(日)、NHKスペシャル『「村人は満州へ送られた~“国策”
71年目の真実~」』が放映された。

滿蒙開拓に27万人を送り出した背景に、どんな行政機構があったのか。
この歴史を掘り起こすことが、番組の目的のひとつだった。
滿蒙開拓は、関東軍が立案した。実務は拓務省だった(拓務省は戦後外
務省となった)。全国の農家には農林省が割り当てをした。貧農対策だけ
でない省庁の思惑があり、農林省→県→村→農家へと割り当てが課されて
いった。
八ヶ岳修練農場は農林省の次官を経て農村更生協会の理事長となった石黒
忠篤が設立した。ちの男女共生ネットは、農村更生協会が設立した、修練
農場が、滿蒙開拓に果たした役割の歴史を明らかにして欲しいと要望した。

▲8月17日午前、やまねこたちは、原村の八ヶ岳中央農業実践大学校を
訪問し、学校長に面会して要望書を読み上げ、手渡した。

要望は次の通りである。

2016年(平成28年)8月17日
公益財団法人 農村更生協会八ヶ岳中央農業実践大学校 
校長 清水矩宏様

八ヶ岳農業修練場の歴史が公開されることを要望します。
戦後71年が過ぎ、戦争の歴史を見直す時が来ています。先ごろ私たちの
仲間「ちの男女共生ネット」は、参加者を募集し滿蒙開拓平和記念館を訪
問しました。女性に参政権がなかった大日本帝国の時代を体験し、戦後の
平和な社会の意味を問うことが課題でした。これに先立ち、滿蒙開拓関連
施設が県内に見当たらないかを書物にあたって調べました。

この中、原村の八ヶ岳中央農業実践大学校、貴大学校が、かつては八ヶ岳
中央農業修練場であり、滿蒙開拓の指導員訓練施設として全国から人々が
集まり、合宿する場所であったことを知りました。滿蒙開拓者養成を目的
とした、御牧ヶ原滿蒙開拓修練農場八ヶ岳分校との位置づけ。「農村中堅
人物養成」が目的でした。開場は昭和134月御柱祭りの最中。「農林省
村更生協会が全国の最高峰施設として建設した八ヶ岳中央農業修練場は
41日開場。更生会長石黒忠篤氏ら多数来賓を迎えて入場式を挙行」との
記事が信濃毎日新聞(45日付)に掲載されています。初代場長石黒忠篤
氏は農林省次官を経て、農村更生協会会長、満州移住協会理事長、第2次
近衛内閣農林大臣の経歴のすべてにおいて、農村の更生、やがては滿蒙開
拓への送り出しに情熱を傾けた人物でした。この経過が『長野県満州開拓
史・総編』に記されています。

私たちは、71年間の平和な社会を尊重し、二度と戦争に向かわぬため、
史に学ぶことの大切さを痛感し、勉強会で戦争体験聴き語りを重ねてき
ました。現在、諏訪地域、原村富士見茅野諏訪岡谷などに在住する人々に
尋ねたところ、戦争中の八ヶ岳農業修練場の果たした役割について知る人
は、ほとんどありません。今日、貴校のHPを訪問しても、開場の年と旧名
を記すのみで滿蒙開拓の記載がゼロです。戦争に関する歴史遺産が誰にも
知られぬままであるのは残念なことです。前身の八ヶ岳農業修練場の歴史
はもしかすると、戦争中の不都合な時代の遺産として仕舞い込まれている
のではないでしょうか?このままだったらそれは「負の遺産」です。

私たちは、八ヶ岳農業修練場の戦争中の歴史を市民に対して公開していた
くことを要望します。戦争中の大学校のあり方につき、責任追及するこ
とを目的とするものではありません。そうではなく、人々が歴史の現実に
しっかり向き合うことのできる場を構築することが必要と考えるからです。

すべてが公開されること。この時はじめて、若い世代が歴史から学び、自
および社会の行く末を考える場が生み出されます。この時、「負の遺
産」は、平和教育に役立つ「正の遺産」に転化します。
これこそ、阿智村の滿蒙開拓平和記念館が成し遂げつつあることなのです。

814日放映NHKスペシャル『「村人は満州へ送られた~“国策”71年目
真実~」』によって、大量の資料が貴校図書室に保管されていたことを
知りました。これら資料は早急に、古文書整理専門家アーキビストの手で、
アーカイブに分類保管されるものと考えます。その後、希望者の閲覧を可
能にする方向に向かって対応して下さることを、貴大学校の歴史公開と併
せ、念願し要望する次第です。

あの時代に問いかけてみます。
なぜ、「満州」へ行ったのですか。
今を生きるあなたに問いかけてみます。
あの時代に生きていたら、どうしますか。(滿蒙開拓平和記念館)

 ちの男女共生ネット・代表  藤瀬恭子


▲以上の要望書を提出した。宛先は学校長だったが、学校長は教育部門
の責任者、それ以外はすべて、東京にある農村更生協会の当局が判断す
るとの回答がまずは語られた。
協会からの回答が出次第、書面の連絡がもたらされる約束である。

▲さて、8月17日の要望書提出の後、早めにこのやまねこ通信で報告
をしなくてはと考えていました。
「結果はどうなったの?」
問合せくださる方々が幾人もありました。
「応援してるから頑張ってね!」
励ましのお言葉をいただき、背中を押されてもいました。

ところがなのです。
暑さが厳しいとさほど思わなかったのに、一種の夏バテか、8月後半の
やまねこに、爆睡の日々が連日のように訪れたのです。
朝起きて朝食を済ませては爆睡、昼食を食べては爆睡、3時のおやつの
後にまた爆睡、夕方にも爆睡。夕食をすませ夜のニュースを見るうちに
眠くなり10時には深々と夜の爆睡に落ちたのでした。
いくら眠ってもまだ眠い日々。全治およそ2週間。

15歳ほど年長の信州生まれの友人がかねがね吐露していました。
「自分のからだが自分のものでないみたで。使い物にならないの。
ごしてえ、ごしてえ!」

こういうことだったのか!このたび深く納得した次第です。



うらおもて・やまねこでした。




2016年8月14日日曜日

やまねこ通信364号:『シン・ゴジラ』は二極分化社会の清涼剤、先を知りたければ先の大戦を勉強するのが近道

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『シン・ゴジラ』は二極分化社会の清涼剤、先を知りたければ先の大戦を勉強するのが近道

『シン・ゴジラ』を岡谷で見た。夏休み中だから大入り満員を心
配したが、四分の1の入り。開始間もなくテンポよくぐいぐい引
き込む。東京湾海底トンネルで不審な事故が起こる。地震では
ない。原因は怪獣、やがてゴジラと命名される。この事件に対し
てこの国の行政機構のトップ、総理大臣も霞ヶ関もなすすべが
ない。内閣の会議に出席するときは、ホンネを語ってはらない。

常に上司の立場を慮ること。これが至上命令の上下関係。だか
らどうでもいい結論しか出てこない政府の日常。ところが、今回
は正体不明の怪獣が東京に発生した。想定外の事態。「災害」
の原因が「生き物」である事実を受け止めることができず、まず、
初期対応が遅れてしまうこの国の縦割り行政システムの現実が
露呈する。そこに登場するのが、官僚機構の若手矢口をトップと
するチーム。

▲若手官僚矢口をリーダーとしてそれぞれの知識と人脈を生か
して対処しようと努力する若手チームが立ち上がる。矢口チーム
の前に立ちはだかるのが、既存の政府官僚機構である。敵は怪
物である前に、この国の政府の不決断システムだ。

首相は幾つものハードルの前で立ち往生。警察の手には負えな
い。では、自衛隊の出動、避難者に犠牲が出ることを見越して怪
物を攻撃すること。米軍に協力を依頼すること。米軍が怪物を核
ミサイルで攻撃すること。こうした前代未聞のハードルを、矢口チ
ームに促され、政府は踏み越えてゆく。都心部が崩壊し、政府は
立川に移動。移動する中で犠牲者が出て首相は交代。実のとこ
ろ、首相は誰でもいいのだ。

政府が依頼して、米軍の核ミサイルでゴジラを攻撃する時刻が迫
ってくる。核ミサイルを受ければ東京は死んでしまう。矢口チーム
は、日本独自の退治方法を熱心に探求。結果、ゴジラのエネルギ
ーが原発と同じだから、冷却する血液を凝固させればいい。その
方法を発見して全国から調達。それに成功したのは、米軍ミサイ
ル発射の1時間前だった。ゴジラは東京駅の上にど~んと倒れた
まま固定させられる。

▲巨体のゴジラが進むことで、ビルが押し倒され、道路や線路が
ひん曲がる。破壊力の描写は、東北大地震の津波のため、市街
地に押し寄せた車の群れそっくり。あの津波がゴジラと思うといい。

破壊された道路、建物は、阪神大震災、関東大震災、東京大空襲
の重ね書きだ。この情景のリアル感がものすごい。蒲田に上陸して
品川の人家密集地をひたすら進む。目的は前に進むこと。冷却の
ため海に引き返し、鎌倉に上陸。最後は、ヒルズ族の住む港区の
超高層のビル群が、ゴジラのしっぽによってあえなくなぎ倒される。

大阪出身の、庵野秀明監督による東京の大破壊。これは二極分化
する社会の怨恨をゴジラが代弁してくれたとの受け止め方も可能で
あろう。港区の超高層ビルなんて、ゴジラにかかればひとたまりもな
いのだ。伊福部昭の『ゴジラ』音楽が引用される。ダダダン、ダダダ
ン、ダダダ、ダダダン。

▲昨年9月に国会を取り巻いた10万人を超えるデモ隊のエネルギ
ーの向かう先、国会と霞ヶ関。この標的を、ゴジラは易々と破壊す
る。移動する原発と思ったらいい。ところが放射能半減期が異様に
早く、最も進んだ生物であることが矢口チームのメンバーによって
発見されてゆく。それにしても、放射性廃棄物が東京湾で廃棄され
ていたこととゴジラの誕生に気づいた元大学教授の失踪・・・このあ
たりは、もう一度見なくては把握できない。

▲憲法9条が封印してきた国防、米国支援の要請。こうした国防、外
交問題を早めに「前進」させる意欲で制作されていると受け止める人
々がいるかもしれない。けれどやまねこはその考えには与しない。

今日の政治状況をリアルに描くなら、ここで示されたさまざまな手段
を手当たり次第、使いまわすしかないのだから。東日本大震災の後
にも、一向に死ぬことがない霞ヶ関原発ムラ。この国の異様さが、あ
りったけ盛り込まれている大規模な社会の自画像とも見える。できる
だけ多くの人々に見てもらいたい映画だ。

▲さしあたりの結論。無能と不決断の古い政府・霞ヶ関がゴジラによ
って破壊された。新しい国を若手官僚「矢口チーム」が「正義の救済
者」となって、ゴジラが破壊した古い東京を、別の場所に新しく再建す
る未来への希望が示されるとの結論だが・・・

矢口チームの面々が、どれも「有能な」テクノクラート。ところがそこに
は、日々の暮らしを生きる人々の姿がまったく見えてこない。今より
もっとひどい未来図しか想像できないのである。

過去の大戦の深入りの経過、少数のエリート参謀たちの無謀作戦を、
誰も止めることができなかったこの国の歴史。嘘ででっち上げた滿蒙
開拓団の棄民政策、こうした歴史を鑑みると、矢口チームに希望を託
すことは、とてもできない。むしろ戦争の歴史を改めてじっくり勉強し直
すのが最善の道だと思う。


うらおもて・やまねこでした。



2016年8月11日木曜日

やまねこ通信363号:敗戦を振り返る、「ポツダム宣言」発表後の空襲と原爆

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敗戦を振り返る、「ポツダム宣言」提示以後の空襲と原爆

8月は敗戦を振り返る月である。
日程を追ってみよう。

4月30日、ヒトラーは前日結婚したエヴァ・ブラウンと共
     に自殺。
57日、ドイツ、連合国に無条件降降伏。
726日、「ポツダム宣言」、日本に対する降伏勧告がトル
     ーマン、チャーチル、蒋介石の名で発表。
7月27日、「ポツダム宣言」を日本政府、論評抜きで公表。

以下、「ポツダム宣言」発表後の、本土の空襲、原爆。
81日 水戸空襲B2999機。死者242人。負傷者1293人。罹
    災人口5605人。
81日 八王子空襲 B29169機。死者445人。負傷者2000
    以上。焼失家屋14,000戸。罹災人口77,000人。
81日 長岡空襲B29125機。死者1470人余。焼失家屋11,986戸。
82日 富山大空襲 B29174機。死者2737人。負傷者7900
    焼失家屋24,914戸(市街地の99.5%)。罹災人口109,592人。
    広島・長崎の原爆を除けば地方都市として最大の被害。
    なお、81日から翌2日未明にかけて行われた水戸・
    八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官カ
    ーチス・ルメイが自身の昇進と陸軍航空隊発足記念日
    を祝う目的で一斉に行われた戦略上特に意味のない
    作戦で、1日の弾薬使用量がノルマンディー上陸作戦
    を上回るように計算されていた。
85日 前橋・高崎空襲 B2992機。死傷者1323人。
85日 佐賀空襲
85-6日 今治空襲 B29・約70機。死者454人、重傷者150人、
    被災者34,200人、市街地の80%が焼失。
86日 広島原爆
87日 豊川空襲。豊川海軍工廠が空襲で壊滅。死者2477人。
88日滿蒙にソ連侵攻。不可侵条約をしていたソ連が日本のポ
   ツダム受諾の近いことを見越して侵攻、男性を抑留。現
   地の開拓団は女・子どもばかりとなった。
88日 福山大空襲 B2991機。死者354人、負傷者864人、焼
    失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(福山市民82%
   が被災)。同年6月にはグラマンF6F艦上戦闘機によって
   福山海軍航空隊への機銃掃射が行われていた。
88日 八幡大空襲。B29127機。死者2952人、焼失家屋数14,
    380戸。このときの火災による煙が、翌日の原爆の投
    下目標を小倉から長崎に変更させる一因となった。
89日 長崎原爆
89日 大湊空襲。死者129名、負傷者300名以上。敷設艦常磐
    などが大破。
89日 釜石艦砲射撃。2回目。少なくとも死者301人。爆音は
    秋田市まで響いたという。
810日 花巻空襲、熊本空襲
811日 久留米空襲。日中、B-24が市街地を空襲し、久留米駅
    が全焼。死者約210人。焼失家屋4,506戸。
811日 加治木空襲 ダグラスA-20爆撃機18機による2回目の空
    襲。死者26人。役場をはじめ、諸官庁、学校がほとん
    ど焼失。送電線・電話線も焼け、ラジオも聞けなかった。
813日 長野空襲長野市、上田市に艦載機62機による空襲。
814日 岩国大空襲 この空襲の帰りに光にも空襲があった。
814日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738人。
814-15日 熊谷空襲 B2989機。死傷者687人。
814-15日 伊勢崎空襲 B2993機。
814-15日 小田原空襲 死者30-50人。伊勢崎と熊谷を空襲した
     B29が帰路に余った爆弾を投下した。
814-15日 土崎空襲 B29132機。死者250人超、製油所全滅。
814日、ポツダム宣言受諾を日本政府は駐スイス及びスウェー
     デンの日本公使館経由で連合国側に通告。
815日に国民に発表された。玉音放送。
92日、降伏文書(休戦協定)に調印。東京湾内に停泊する米
    戦艦ミズーリの甲板。日本政府全権重光葵、大本営
   (日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言
    の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書に調印。宣言
    は外交文書として固定された。
    (以上、Wikipedia参照)。

▲ミズーリ号上の調印式で、日本国の無条件降伏が確定した。
7月27日以後は、ポツダム宣言受諾をいつ大本営がするかの
「猶予期間」だった。その中、8月には全国の空襲と原爆投下
が連続した。大日本帝国に無条件降伏受諾を促すためのものだ
った。このことを、国民は全く知らされていなかった。

滿蒙開拓と残留孤児さがしの山本慈昭を描いた映画「望郷の
鐘」は、終戦のわずか3カ月前に満蒙開拓団に送り出された物
語である。山田火砂子監督は語る。
「約27万人の開拓団の人たちは8月の旧ソ連参戦で置き去り
になった。日本へ、故郷へ帰ろうと逃げまどい、飢えや寒さで
バタバタとたくさんの人が亡くなる。そして、多くの残留婦人、
残留孤児をつくってしまった。8月に滿蒙開拓に向かった人々
がいたことを聞いた」。

大日本帝国の大東亜戦争下、国民はほとんど何も知らされてい
なかった。
今日の私たちは、果たしてどれだけ知らされているのだろう?



うらおもて・やまねこでした。

2016年8月7日日曜日

やまねこ通信362号:滿蒙開拓の史跡公開に向けて、御牧ヶ原と桔梗ヶ原、信濃教育会、

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滿蒙開拓の史跡公開に向けて、御牧ヶ原と桔梗ヶ原、信濃教育会、

滿蒙開拓平和記念館に、やまねこの仲間、ちの男女共生ネ
ットが募集した27人が訪問した。2週間前の7月24日。
勉強会の折には毎回資料を作成してきた。

今回は、八ヶ岳西麓に、戦争の史跡が見つかったことを資
料に報告した。それこそ八ヶ岳修練農場、現在の八ヶ岳中
央農業大学校である。

滿蒙開拓に向かう人々を全国から集めた訓練所、八ヶ岳修
練農場の歴史は公開されていない。中国東北部の旧満州に
行かなくても国内に史跡がある。

目下、歴史を公開して、平和教育の場にすることを、新聞
を通じて訴えようと努めている。
信濃毎日新聞、毎日新聞、中日新聞、長野日報の4紙である。

▲長野県は滿蒙開拓に全国最大の人々を送った県である。
県内に、八ヶ岳修練農場の他に、県立の修練農場が二箇所
あった。

長野県立御牧ヶ原修練農場開設。19349月(昭和9年)。
(現在小諸市の県立農業大学敷地)
1936年9月(昭和11年)に「県立満州農業移民訓練所」が
併設された。

設立概要には目的が書かれていた。
「県内未開墾地開発、並びに滿蒙曠野に於ける農村建設の
聖業達成に努めんとす」。
設立規定には所長:長野県学務部長、県経済部長などの県
庁の役職の他に信濃教育会長が並んでいる。

次は女子の訓練所、「大陸の花嫁」養成学校だ。
★長野県桔梗ケ原女子拓務訓練所を、東筑摩郡広丘村桔梗
ヶ原に設立。(現在・塩尻市広丘野村)19407月(昭和15
年): 「大陸の花嫁」の養成。日本最初の女子拓務訓練所
として設立された。
目的:「興亜の聖業に率先尽力せんとする者に対し、精神
的陶冶を行い、特性を涵養し、かつ必要なる知識・技能の
修練を施す」。

科目:修身、作法、公民科、農民道、開拓精神、満支及び
南洋事情、満支語、興国運動、育児衛生、家事裁縫、耕種、
要畜産加工、実習作業の13科目。そのほかに朝の礼拝(君
が代斉唱、直後奉読、皇居遥拝)、日本体操(やまとばた
らき)、神社参拝など。

内原訓練所長の加藤完治は1940年桔梗ヶ原の入所式に
列席し式辞を延た。「内原訓練所と表裏一体をなして、東
亜民族協和の楔たらんとする有為の女性が、ここから続々
生まれ出ることに期待をかけるものである。長野県は全国
に先んじて大陸発展の計画を実践しているが、まだまだ生
ぬるいと私は思う。ここへ入る女性は、入所と同時に満州
へ渡ったと全く同じ気持ちで真剣勝負をしてもらいたい」。
『滿蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』長野県歴史教育者
協議会・編、大月書店、2000年。

以上、御牧ヶ原、桔梗ヶ原の訓練所は、滿蒙開拓の史跡と
して公開されてはいない。桔梗ヶ原は、広丘の住宅地の中
に、小さな表示が立っているという。

▲長野県から多数の少年義勇軍が志願した背景に、信濃教
育会の存在が大きい。
信濃教育会は、全国で8万人を超え、長野県では7000
人に届こうとする大量の少年義勇軍を送り出した長野県で、
影響力の非常に大きな団体である。信濃教育会は「興亜教
育」をかかげて全力をあげて学童を義勇軍募集に向かわせ
た。このことは多くの人の証言が語っている。義勇軍の志
願者の動機を調査した結果、最大の動機は、「教員の勧め」
だった。

県から各地域に一定の志願者を出すように割り当てが下る。
教員は担任するクラスの児童に少年義勇軍に入隊するよう
に学校で勧める。「お国の役に立てる」ことを授業で語る。
さらに生徒の家庭を幾度も訪問し、義勇軍応募を勧めた。
その結果、例えば22人のクラスで3人が志願した。強制で
はないと教師は語るが、義勇軍の意義を語って子どもたち
の意欲を強く促進したのだ。

滿蒙開拓少年義勇軍に応募を促した教員たちを束ねる信濃
教育会。戦後、その歴史を見直し責任を取る姿勢があった
だろうか?

戦後37年目、太田美明元会長は語っている。「信濃教育
会が戦争に協力したといってもね。国や県の政策に応じて
やっただけ。反省するとすれば、それは国や県の仕事だよ。
われわれがやる必要はないし、またやるべきではない」。
1982年(昭和57年8月13日朝日新聞)。

▲けれど、教員全員が太田元会長と同じ気持ちだったので
はない。『滿蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』長野県歴
史教育者協議会編(大月書店、2000年)という本は、本稿
を書くにあたって大いに役立った貴重な書物である。この
本は、長野県が滿蒙開拓への「送出」全国一の理由は何か
を検証している。
1 養蚕王国の壊滅
2 農村経済更生運動の中から生まれた「満州分村移民計
    画」
3 信濃教育会のかかわり

会の創立(1886年明治19年)以来、海外発展思想が
芽生える。やがて行政と深く結びつく。南米ブラジル移民、
次に滿蒙移民。1933年(昭和8年)信濃教育会に滿蒙
研究室常設部が設置された。後に東亜研究室、大東亜研究
室と改称する。
・更科農業拓殖学校設立(1936年)。
・『滿蒙読本』や『満州農業移民』などを刊行し、「五族
   協和」思想を普及した。
・県立桔梗ヶ原女子拓務訓練所設置。「大陸の花嫁」養成。
・「興亜教育」推進のため、大集会、研究会を積極的に開
  いて「送出」の具体策を作って推進。
・滿蒙視察を常に続けて『信濃教育』にその報告を掲載。

▲波田小学校の興亜教育。
1939年(昭和14年)「高小卒業の半数腕組んで大陸
へ」
の見出し。波田小高等科卒業生男子71名中34名が青少
年義勇軍として内原訓練所へ。
県視学の野村篤恵が1936年波田小校長に。翌年「滿蒙
開拓少年義勇軍」が閣議決定され「国策」になった。

人数送り出した長野県の教員集団、信濃教育会がどのよう
に活動したかの歴史を集団で掘り起こしている。

▲さらにメディアの責任。『信濃毎日新聞』主筆、桐生悠
々は「新満州における信濃村の創造」と題して次のことを
説いた(1932年昭和8年)。

・日本文化の歴史的使命としての移民の意義を説く。
・現地の事情は、「動物の生活のそれに等しい生活水準を
持つもの」、「豚の住む穢土」と伝え、日本人による教化
を煽動した。
・その後、「二・四事件」など、戦時体制批判は徹底弾圧
を受け、桐生悠々は退社を余儀なくされた。ジャーナリズ
ムに対する軍事統制が強化され長野県は『信濃毎日新聞』
一紙に統一。
▲桐生悠々の論調を背景に、滿蒙への「送出」は、「略奪」
された土地への入植との意識よりもむしろ、大自然の原野
を自由に切り開く使命感を底流に持っていたのではなかっ
たか。

▲関連する人物:
石黒忠篤:1884年(明治17年)19 - 1960年(昭和35
年)310日)
八ヶ岳修練農場初代場長。東京帝国大学法科大学卒業、農
商務省に入省。農林次官。農村更生協会会長、産業組合中
央金庫理事長などを歴任。1940年(昭和15年)、第2次近衛
内閣の農林大臣に就任。
この間、農業報国連盟理事長、満州移住協会理事長、日本
農業研究所理事長を歴任している。農業振興、農村救済に
取り組み、戦前における農政の第一人者として「農政の神
様」と呼ばれる。大正末期以降、小作立法制定に精力を費
やす。1930年代には満蒙開拓移民に小作問題解決の途を見
いだし、加藤完治とともにその推進役となる。また、戦争
に対する態度としては日独伊三国軍事同盟に閣内では唯一
最後まで反対。(Wikipedia参照)

★小平権一:(1884-1976年)、八ヶ岳修練農場を着想し
た。日本の農政官僚、政治家。数学者の小平邦彦の父。長
野県諏訪郡米沢村(現茅野市)に小学校教員の小平邦之助
の長男として生まれる。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵
高等学校)を経て、第一高等学校工科を途中休学、東京帝
国大学農学科および法学科卒。農商務省に入り農政課に配
属。石黒忠篤農政課長とともに小作立法に取り組む。農務
局長、経済更生部長を経て1938年に農林次官。小作立法、
産業組合の保護育成、農業保険制度、農業金融の改善充実、
農産物の価格安定など農政の主要課題の企画立案に当たっ
た。経済更生部長時には、農業恐慌にあえぐ農村の再建の
ため農山漁村経済更生運動を指導し、小農経営を産業組合
に結集して農業経営の組織化を唱導。千石興太郎を指導者
とする産業組合拡充運動と呼応して「協同組合主義農政」
を推進。1942年には衆院議員、1943年には中央農業会副会
長。改組後の全国農業会副会長として戦中・戦後の混乱期
の協同組合組織の最高責任者。1944年には中央農業会から
家の光協会を独立させ会長就任。戦後は農林中央金庫監事、
協同組合短期大学教授。(Wikipedia参照)

★加藤完治:1884年(明治17年)122 - 1967年(昭和
42年)330日)は、日本の教育者、農本主義者、剣道家。
当初は熱心なキリスト教徒。後に古神道に改宗、筧克彦の
古神道に基づく農本主義を掲げ、関東軍将校で満州国軍政
部顧問の東宮鉄男と満蒙開拓移民を推進。満蒙開拓青少年
義勇軍の設立にかかわり、1938年(昭和13年)、茨城県内
原町(後に水戸市)の日本国民高等学校(1935年に移転)
に隣接して、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所を開設。8万人
を輩出した。
2次世界大戦後、公職追放。GHQからA級戦犯として召喚
された。1953年(昭和28年)日本国民高等学校校長に復帰
のち名誉校長。1967年(昭和42年)死去。現在の学校名は
日本農業実践学園。

伊沢修二:1851630日(嘉永462日)- 1917
(大正6年)53日)信濃教育会名誉会員。1903(明治36
年)「信濃教育と対外思想」講演で、満州が日本の着目す
べき土地であることを最初に説いた。日清戦争後台湾にわ
たり植民地台湾の日本家教育を企画、日本の植民地教育の
創始者。東京師範学校長、東京音楽学校長。(『信濃教育』
202203号)

★社団法人農村更生協会:苦境にある農山漁村救済のため、
石黒忠篤事務次官の農林省に経済更生部が新設され小平権
一が部長に就任。1934年(昭和9年)石黒忠篤会長のもと設
立。八ヶ岳修練農場を設立。

★被差別部落との関わり:差別を改善する団体、中央融和
事業協会は、1940年、農林省指定の満洲分村移民に向けて
特別指導地区を指定した。満州移住協会・農村更生協会と
の共同開催により99月に大規模な資源調整指導員錬成講
習会を開催。

満洲来民(くたみ)開拓団:熊本県鹿本町に「満洲来民開
拓団供養塔」が建てられている。死者275人。集団自決での
死者だった。1942年(昭和17年)ひとつの「部落」が全村
で満州に移民した全国で唯一の例であった。外地での「差
別からの解放」が念願だった。敗戦後集団自決をした。男
性ひとりは結末を報告するため帰国。故郷では、親が子を、
子が親を手にかけ自決したことが部落ゆえと非難された。
・被差別部落から満州に移民した人々は差別の解消を願っ
ていた。しかし満州で召集された時、軍隊の中での差別が
消えなかった。国内での差別は、国境を越えても解消され
ない。この一例となった。

原村の八ヶ岳中央農業大学校が、かつて八ヶ岳修練農場の
名で、滿蒙開拓に向かう人々の訓練所であったことを知っ
たのは、近代の被差別部落の歴史を調べる中のことであっ
た。

★参考図書:
・『長野県満洲開拓史 総編』長野県開拓自興会満洲開拓史
 刊行会、1984年(昭和59年)
・久保佐土美『八ヶ岳農場物語』私家版、1974年(石黒忠篤
 に次ぐ二代目場長、元高知大学学長の著。滿蒙の語が一度
 も登場しない)。
・『滿蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』長野県歴史教育者
 協議会編、大月書店、2000
・藤野豊『被差別部落ゼロ?近代富山の部落問題』桂書房20
 01年、p162
・蘭信三『満州移民の歴史社会学』行路社、1994年。
・高橋幸春『絶望の移民史 満州へ送られた「被差別部落」
 の記録』毎日新聞社、1995年。
・『信濃毎日新聞』修練農場開場の新聞記事、昭和13年4
 月5日(御柱祭りの年)他。

▲来週放映予定のこの番組は、八ヶ岳修練農場を取材してい
ます。

NHKスペシャル「村人はこうして満州へ送られた ~国策
『満蒙開拓』71年目の真実~」(仮)
放送時間:2016814() 午後900分~949



うらおもて・やまねこでした。