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2016年8月14日日曜日

やまねこ通信364号:『シン・ゴジラ』は二極分化社会の清涼剤、先を知りたければ先の大戦を勉強するのが近道

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『シン・ゴジラ』は二極分化社会の清涼剤、先を知りたければ先の大戦を勉強するのが近道

『シン・ゴジラ』を岡谷で見た。夏休み中だから大入り満員を心
配したが、四分の1の入り。開始間もなくテンポよくぐいぐい引
き込む。東京湾海底トンネルで不審な事故が起こる。地震では
ない。原因は怪獣、やがてゴジラと命名される。この事件に対し
てこの国の行政機構のトップ、総理大臣も霞ヶ関もなすすべが
ない。内閣の会議に出席するときは、ホンネを語ってはらない。

常に上司の立場を慮ること。これが至上命令の上下関係。だか
らどうでもいい結論しか出てこない政府の日常。ところが、今回
は正体不明の怪獣が東京に発生した。想定外の事態。「災害」
の原因が「生き物」である事実を受け止めることができず、まず、
初期対応が遅れてしまうこの国の縦割り行政システムの現実が
露呈する。そこに登場するのが、官僚機構の若手矢口をトップと
するチーム。

▲若手官僚矢口をリーダーとしてそれぞれの知識と人脈を生か
して対処しようと努力する若手チームが立ち上がる。矢口チーム
の前に立ちはだかるのが、既存の政府官僚機構である。敵は怪
物である前に、この国の政府の不決断システムだ。

首相は幾つものハードルの前で立ち往生。警察の手には負えな
い。では、自衛隊の出動、避難者に犠牲が出ることを見越して怪
物を攻撃すること。米軍に協力を依頼すること。米軍が怪物を核
ミサイルで攻撃すること。こうした前代未聞のハードルを、矢口チ
ームに促され、政府は踏み越えてゆく。都心部が崩壊し、政府は
立川に移動。移動する中で犠牲者が出て首相は交代。実のとこ
ろ、首相は誰でもいいのだ。

政府が依頼して、米軍の核ミサイルでゴジラを攻撃する時刻が迫
ってくる。核ミサイルを受ければ東京は死んでしまう。矢口チーム
は、日本独自の退治方法を熱心に探求。結果、ゴジラのエネルギ
ーが原発と同じだから、冷却する血液を凝固させればいい。その
方法を発見して全国から調達。それに成功したのは、米軍ミサイ
ル発射の1時間前だった。ゴジラは東京駅の上にど~んと倒れた
まま固定させられる。

▲巨体のゴジラが進むことで、ビルが押し倒され、道路や線路が
ひん曲がる。破壊力の描写は、東北大地震の津波のため、市街
地に押し寄せた車の群れそっくり。あの津波がゴジラと思うといい。

破壊された道路、建物は、阪神大震災、関東大震災、東京大空襲
の重ね書きだ。この情景のリアル感がものすごい。蒲田に上陸して
品川の人家密集地をひたすら進む。目的は前に進むこと。冷却の
ため海に引き返し、鎌倉に上陸。最後は、ヒルズ族の住む港区の
超高層のビル群が、ゴジラのしっぽによってあえなくなぎ倒される。

大阪出身の、庵野秀明監督による東京の大破壊。これは二極分化
する社会の怨恨をゴジラが代弁してくれたとの受け止め方も可能で
あろう。港区の超高層ビルなんて、ゴジラにかかればひとたまりもな
いのだ。伊福部昭の『ゴジラ』音楽が引用される。ダダダン、ダダダ
ン、ダダダ、ダダダン。

▲昨年9月に国会を取り巻いた10万人を超えるデモ隊のエネルギ
ーの向かう先、国会と霞ヶ関。この標的を、ゴジラは易々と破壊す
る。移動する原発と思ったらいい。ところが放射能半減期が異様に
早く、最も進んだ生物であることが矢口チームのメンバーによって
発見されてゆく。それにしても、放射性廃棄物が東京湾で廃棄され
ていたこととゴジラの誕生に気づいた元大学教授の失踪・・・このあ
たりは、もう一度見なくては把握できない。

▲憲法9条が封印してきた国防、米国支援の要請。こうした国防、外
交問題を早めに「前進」させる意欲で制作されていると受け止める人
々がいるかもしれない。けれどやまねこはその考えには与しない。

今日の政治状況をリアルに描くなら、ここで示されたさまざまな手段
を手当たり次第、使いまわすしかないのだから。東日本大震災の後
にも、一向に死ぬことがない霞ヶ関原発ムラ。この国の異様さが、あ
りったけ盛り込まれている大規模な社会の自画像とも見える。できる
だけ多くの人々に見てもらいたい映画だ。

▲さしあたりの結論。無能と不決断の古い政府・霞ヶ関がゴジラによ
って破壊された。新しい国を若手官僚「矢口チーム」が「正義の救済
者」となって、ゴジラが破壊した古い東京を、別の場所に新しく再建す
る未来への希望が示されるとの結論だが・・・

矢口チームの面々が、どれも「有能な」テクノクラート。ところがそこに
は、日々の暮らしを生きる人々の姿がまったく見えてこない。今より
もっとひどい未来図しか想像できないのである。

過去の大戦の深入りの経過、少数のエリート参謀たちの無謀作戦を、
誰も止めることができなかったこの国の歴史。嘘ででっち上げた滿蒙
開拓団の棄民政策、こうした歴史を鑑みると、矢口チームに希望を託
すことは、とてもできない。むしろ戦争の歴史を改めてじっくり勉強し直
すのが最善の道だと思う。


うらおもて・やまねこでした。



2016年8月11日木曜日

やまねこ通信363号:敗戦を振り返る、「ポツダム宣言」発表後の空襲と原爆

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敗戦を振り返る、「ポツダム宣言」提示以後の空襲と原爆

8月は敗戦を振り返る月である。
日程を追ってみよう。

4月30日、ヒトラーは前日結婚したエヴァ・ブラウンと共
     に自殺。
57日、ドイツ、連合国に無条件降降伏。
726日、「ポツダム宣言」、日本に対する降伏勧告がトル
     ーマン、チャーチル、蒋介石の名で発表。
7月27日、「ポツダム宣言」を日本政府、論評抜きで公表。

以下、「ポツダム宣言」発表後の、本土の空襲、原爆。
81日 水戸空襲B2999機。死者242人。負傷者1293人。罹
    災人口5605人。
81日 八王子空襲 B29169機。死者445人。負傷者2000
    以上。焼失家屋14,000戸。罹災人口77,000人。
81日 長岡空襲B29125機。死者1470人余。焼失家屋11,986戸。
82日 富山大空襲 B29174機。死者2737人。負傷者7900
    焼失家屋24,914戸(市街地の99.5%)。罹災人口109,592人。
    広島・長崎の原爆を除けば地方都市として最大の被害。
    なお、81日から翌2日未明にかけて行われた水戸・
    八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官カ
    ーチス・ルメイが自身の昇進と陸軍航空隊発足記念日
    を祝う目的で一斉に行われた戦略上特に意味のない
    作戦で、1日の弾薬使用量がノルマンディー上陸作戦
    を上回るように計算されていた。
85日 前橋・高崎空襲 B2992機。死傷者1323人。
85日 佐賀空襲
85-6日 今治空襲 B29・約70機。死者454人、重傷者150人、
    被災者34,200人、市街地の80%が焼失。
86日 広島原爆
87日 豊川空襲。豊川海軍工廠が空襲で壊滅。死者2477人。
88日滿蒙にソ連侵攻。不可侵条約をしていたソ連が日本のポ
   ツダム受諾の近いことを見越して侵攻、男性を抑留。現
   地の開拓団は女・子どもばかりとなった。
88日 福山大空襲 B2991機。死者354人、負傷者864人、焼
    失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(福山市民82%
   が被災)。同年6月にはグラマンF6F艦上戦闘機によって
   福山海軍航空隊への機銃掃射が行われていた。
88日 八幡大空襲。B29127機。死者2952人、焼失家屋数14,
    380戸。このときの火災による煙が、翌日の原爆の投
    下目標を小倉から長崎に変更させる一因となった。
89日 長崎原爆
89日 大湊空襲。死者129名、負傷者300名以上。敷設艦常磐
    などが大破。
89日 釜石艦砲射撃。2回目。少なくとも死者301人。爆音は
    秋田市まで響いたという。
810日 花巻空襲、熊本空襲
811日 久留米空襲。日中、B-24が市街地を空襲し、久留米駅
    が全焼。死者約210人。焼失家屋4,506戸。
811日 加治木空襲 ダグラスA-20爆撃機18機による2回目の空
    襲。死者26人。役場をはじめ、諸官庁、学校がほとん
    ど焼失。送電線・電話線も焼け、ラジオも聞けなかった。
813日 長野空襲長野市、上田市に艦載機62機による空襲。
814日 岩国大空襲 この空襲の帰りに光にも空襲があった。
814日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738人。
814-15日 熊谷空襲 B2989機。死傷者687人。
814-15日 伊勢崎空襲 B2993機。
814-15日 小田原空襲 死者30-50人。伊勢崎と熊谷を空襲した
     B29が帰路に余った爆弾を投下した。
814-15日 土崎空襲 B29132機。死者250人超、製油所全滅。
814日、ポツダム宣言受諾を日本政府は駐スイス及びスウェー
     デンの日本公使館経由で連合国側に通告。
815日に国民に発表された。玉音放送。
92日、降伏文書(休戦協定)に調印。東京湾内に停泊する米
    戦艦ミズーリの甲板。日本政府全権重光葵、大本営
   (日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言
    の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書に調印。宣言
    は外交文書として固定された。
    (以上、Wikipedia参照)。

▲ミズーリ号上の調印式で、日本国の無条件降伏が確定した。
7月27日以後は、ポツダム宣言受諾をいつ大本営がするかの
「猶予期間」だった。その中、8月には全国の空襲と原爆投下
が連続した。大日本帝国に無条件降伏受諾を促すためのものだ
った。このことを、国民は全く知らされていなかった。

滿蒙開拓と残留孤児さがしの山本慈昭を描いた映画「望郷の
鐘」は、終戦のわずか3カ月前に満蒙開拓団に送り出された物
語である。山田火砂子監督は語る。
「約27万人の開拓団の人たちは8月の旧ソ連参戦で置き去り
になった。日本へ、故郷へ帰ろうと逃げまどい、飢えや寒さで
バタバタとたくさんの人が亡くなる。そして、多くの残留婦人、
残留孤児をつくってしまった。8月に滿蒙開拓に向かった人々
がいたことを聞いた」。

大日本帝国の大東亜戦争下、国民はほとんど何も知らされてい
なかった。
今日の私たちは、果たしてどれだけ知らされているのだろう?



うらおもて・やまねこでした。

2016年8月7日日曜日

やまねこ通信362号:滿蒙開拓の史跡公開に向けて、御牧ヶ原と桔梗ヶ原、信濃教育会、

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滿蒙開拓の史跡公開に向けて、御牧ヶ原と桔梗ヶ原、信濃教育会、

滿蒙開拓平和記念館に、やまねこの仲間、ちの男女共生ネ
ットが募集した27人が訪問した。2週間前の7月24日。
勉強会の折には毎回資料を作成してきた。

今回は、八ヶ岳西麓に、戦争の史跡が見つかったことを資
料に報告した。それこそ八ヶ岳修練農場、現在の八ヶ岳中
央農業大学校である。

滿蒙開拓に向かう人々を全国から集めた訓練所、八ヶ岳修
練農場の歴史は公開されていない。中国東北部の旧満州に
行かなくても国内に史跡がある。

目下、歴史を公開して、平和教育の場にすることを、新聞
を通じて訴えようと努めている。
信濃毎日新聞、毎日新聞、中日新聞、長野日報の4紙である。

▲長野県は滿蒙開拓に全国最大の人々を送った県である。
県内に、八ヶ岳修練農場の他に、県立の修練農場が二箇所
あった。

長野県立御牧ヶ原修練農場開設。19349月(昭和9年)。
(現在小諸市の県立農業大学敷地)
1936年9月(昭和11年)に「県立満州農業移民訓練所」が
併設された。

設立概要には目的が書かれていた。
「県内未開墾地開発、並びに滿蒙曠野に於ける農村建設の
聖業達成に努めんとす」。
設立規定には所長:長野県学務部長、県経済部長などの県
庁の役職の他に信濃教育会長が並んでいる。

次は女子の訓練所、「大陸の花嫁」養成学校だ。
★長野県桔梗ケ原女子拓務訓練所を、東筑摩郡広丘村桔梗
ヶ原に設立。(現在・塩尻市広丘野村)19407月(昭和15
年): 「大陸の花嫁」の養成。日本最初の女子拓務訓練所
として設立された。
目的:「興亜の聖業に率先尽力せんとする者に対し、精神
的陶冶を行い、特性を涵養し、かつ必要なる知識・技能の
修練を施す」。

科目:修身、作法、公民科、農民道、開拓精神、満支及び
南洋事情、満支語、興国運動、育児衛生、家事裁縫、耕種、
要畜産加工、実習作業の13科目。そのほかに朝の礼拝(君
が代斉唱、直後奉読、皇居遥拝)、日本体操(やまとばた
らき)、神社参拝など。

内原訓練所長の加藤完治は1940年桔梗ヶ原の入所式に
列席し式辞を延た。「内原訓練所と表裏一体をなして、東
亜民族協和の楔たらんとする有為の女性が、ここから続々
生まれ出ることに期待をかけるものである。長野県は全国
に先んじて大陸発展の計画を実践しているが、まだまだ生
ぬるいと私は思う。ここへ入る女性は、入所と同時に満州
へ渡ったと全く同じ気持ちで真剣勝負をしてもらいたい」。
『滿蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』長野県歴史教育者
協議会・編、大月書店、2000年。

以上、御牧ヶ原、桔梗ヶ原の訓練所は、滿蒙開拓の史跡と
して公開されてはいない。桔梗ヶ原は、広丘の住宅地の中
に、小さな表示が立っているという。

▲長野県から多数の少年義勇軍が志願した背景に、信濃教
育会の存在が大きい。
信濃教育会は、全国で8万人を超え、長野県では7000
人に届こうとする大量の少年義勇軍を送り出した長野県で、
影響力の非常に大きな団体である。信濃教育会は「興亜教
育」をかかげて全力をあげて学童を義勇軍募集に向かわせ
た。このことは多くの人の証言が語っている。義勇軍の志
願者の動機を調査した結果、最大の動機は、「教員の勧め」
だった。

県から各地域に一定の志願者を出すように割り当てが下る。
教員は担任するクラスの児童に少年義勇軍に入隊するよう
に学校で勧める。「お国の役に立てる」ことを授業で語る。
さらに生徒の家庭を幾度も訪問し、義勇軍応募を勧めた。
その結果、例えば22人のクラスで3人が志願した。強制で
はないと教師は語るが、義勇軍の意義を語って子どもたち
の意欲を強く促進したのだ。

滿蒙開拓少年義勇軍に応募を促した教員たちを束ねる信濃
教育会。戦後、その歴史を見直し責任を取る姿勢があった
だろうか?

戦後37年目、太田美明元会長は語っている。「信濃教育
会が戦争に協力したといってもね。国や県の政策に応じて
やっただけ。反省するとすれば、それは国や県の仕事だよ。
われわれがやる必要はないし、またやるべきではない」。
1982年(昭和57年8月13日朝日新聞)。

▲けれど、教員全員が太田元会長と同じ気持ちだったので
はない。『滿蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』長野県歴
史教育者協議会編(大月書店、2000年)という本は、本稿
を書くにあたって大いに役立った貴重な書物である。この
本は、長野県が滿蒙開拓への「送出」全国一の理由は何か
を検証している。
1 養蚕王国の壊滅
2 農村経済更生運動の中から生まれた「満州分村移民計
    画」
3 信濃教育会のかかわり

会の創立(1886年明治19年)以来、海外発展思想が
芽生える。やがて行政と深く結びつく。南米ブラジル移民、
次に滿蒙移民。1933年(昭和8年)信濃教育会に滿蒙
研究室常設部が設置された。後に東亜研究室、大東亜研究
室と改称する。
・更科農業拓殖学校設立(1936年)。
・『滿蒙読本』や『満州農業移民』などを刊行し、「五族
   協和」思想を普及した。
・県立桔梗ヶ原女子拓務訓練所設置。「大陸の花嫁」養成。
・「興亜教育」推進のため、大集会、研究会を積極的に開
  いて「送出」の具体策を作って推進。
・滿蒙視察を常に続けて『信濃教育』にその報告を掲載。

▲波田小学校の興亜教育。
1939年(昭和14年)「高小卒業の半数腕組んで大陸
へ」
の見出し。波田小高等科卒業生男子71名中34名が青少
年義勇軍として内原訓練所へ。
県視学の野村篤恵が1936年波田小校長に。翌年「滿蒙
開拓少年義勇軍」が閣議決定され「国策」になった。

人数送り出した長野県の教員集団、信濃教育会がどのよう
に活動したかの歴史を集団で掘り起こしている。

▲さらにメディアの責任。『信濃毎日新聞』主筆、桐生悠
々は「新満州における信濃村の創造」と題して次のことを
説いた(1932年昭和8年)。

・日本文化の歴史的使命としての移民の意義を説く。
・現地の事情は、「動物の生活のそれに等しい生活水準を
持つもの」、「豚の住む穢土」と伝え、日本人による教化
を煽動した。
・その後、「二・四事件」など、戦時体制批判は徹底弾圧
を受け、桐生悠々は退社を余儀なくされた。ジャーナリズ
ムに対する軍事統制が強化され長野県は『信濃毎日新聞』
一紙に統一。
▲桐生悠々の論調を背景に、滿蒙への「送出」は、「略奪」
された土地への入植との意識よりもむしろ、大自然の原野
を自由に切り開く使命感を底流に持っていたのではなかっ
たか。

▲関連する人物:
石黒忠篤:1884年(明治17年)19 - 1960年(昭和35
年)310日)
八ヶ岳修練農場初代場長。東京帝国大学法科大学卒業、農
商務省に入省。農林次官。農村更生協会会長、産業組合中
央金庫理事長などを歴任。1940年(昭和15年)、第2次近衛
内閣の農林大臣に就任。
この間、農業報国連盟理事長、満州移住協会理事長、日本
農業研究所理事長を歴任している。農業振興、農村救済に
取り組み、戦前における農政の第一人者として「農政の神
様」と呼ばれる。大正末期以降、小作立法制定に精力を費
やす。1930年代には満蒙開拓移民に小作問題解決の途を見
いだし、加藤完治とともにその推進役となる。また、戦争
に対する態度としては日独伊三国軍事同盟に閣内では唯一
最後まで反対。(Wikipedia参照)

★小平権一:(1884-1976年)、八ヶ岳修練農場を着想し
た。日本の農政官僚、政治家。数学者の小平邦彦の父。長
野県諏訪郡米沢村(現茅野市)に小学校教員の小平邦之助
の長男として生まれる。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵
高等学校)を経て、第一高等学校工科を途中休学、東京帝
国大学農学科および法学科卒。農商務省に入り農政課に配
属。石黒忠篤農政課長とともに小作立法に取り組む。農務
局長、経済更生部長を経て1938年に農林次官。小作立法、
産業組合の保護育成、農業保険制度、農業金融の改善充実、
農産物の価格安定など農政の主要課題の企画立案に当たっ
た。経済更生部長時には、農業恐慌にあえぐ農村の再建の
ため農山漁村経済更生運動を指導し、小農経営を産業組合
に結集して農業経営の組織化を唱導。千石興太郎を指導者
とする産業組合拡充運動と呼応して「協同組合主義農政」
を推進。1942年には衆院議員、1943年には中央農業会副会
長。改組後の全国農業会副会長として戦中・戦後の混乱期
の協同組合組織の最高責任者。1944年には中央農業会から
家の光協会を独立させ会長就任。戦後は農林中央金庫監事、
協同組合短期大学教授。(Wikipedia参照)

★加藤完治:1884年(明治17年)122 - 1967年(昭和
42年)330日)は、日本の教育者、農本主義者、剣道家。
当初は熱心なキリスト教徒。後に古神道に改宗、筧克彦の
古神道に基づく農本主義を掲げ、関東軍将校で満州国軍政
部顧問の東宮鉄男と満蒙開拓移民を推進。満蒙開拓青少年
義勇軍の設立にかかわり、1938年(昭和13年)、茨城県内
原町(後に水戸市)の日本国民高等学校(1935年に移転)
に隣接して、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所を開設。8万人
を輩出した。
2次世界大戦後、公職追放。GHQからA級戦犯として召喚
された。1953年(昭和28年)日本国民高等学校校長に復帰
のち名誉校長。1967年(昭和42年)死去。現在の学校名は
日本農業実践学園。

伊沢修二:1851630日(嘉永462日)- 1917
(大正6年)53日)信濃教育会名誉会員。1903(明治36
年)「信濃教育と対外思想」講演で、満州が日本の着目す
べき土地であることを最初に説いた。日清戦争後台湾にわ
たり植民地台湾の日本家教育を企画、日本の植民地教育の
創始者。東京師範学校長、東京音楽学校長。(『信濃教育』
202203号)

★社団法人農村更生協会:苦境にある農山漁村救済のため、
石黒忠篤事務次官の農林省に経済更生部が新設され小平権
一が部長に就任。1934年(昭和9年)石黒忠篤会長のもと設
立。八ヶ岳修練農場を設立。

★被差別部落との関わり:差別を改善する団体、中央融和
事業協会は、1940年、農林省指定の満洲分村移民に向けて
特別指導地区を指定した。満州移住協会・農村更生協会と
の共同開催により99月に大規模な資源調整指導員錬成講
習会を開催。

満洲来民(くたみ)開拓団:熊本県鹿本町に「満洲来民開
拓団供養塔」が建てられている。死者275人。集団自決での
死者だった。1942年(昭和17年)ひとつの「部落」が全村
で満州に移民した全国で唯一の例であった。外地での「差
別からの解放」が念願だった。敗戦後集団自決をした。男
性ひとりは結末を報告するため帰国。故郷では、親が子を、
子が親を手にかけ自決したことが部落ゆえと非難された。
・被差別部落から満州に移民した人々は差別の解消を願っ
ていた。しかし満州で召集された時、軍隊の中での差別が
消えなかった。国内での差別は、国境を越えても解消され
ない。この一例となった。

原村の八ヶ岳中央農業大学校が、かつて八ヶ岳修練農場の
名で、滿蒙開拓に向かう人々の訓練所であったことを知っ
たのは、近代の被差別部落の歴史を調べる中のことであっ
た。

★参考図書:
・『長野県満洲開拓史 総編』長野県開拓自興会満洲開拓史
 刊行会、1984年(昭和59年)
・久保佐土美『八ヶ岳農場物語』私家版、1974年(石黒忠篤
 に次ぐ二代目場長、元高知大学学長の著。滿蒙の語が一度
 も登場しない)。
・『滿蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』長野県歴史教育者
 協議会編、大月書店、2000
・藤野豊『被差別部落ゼロ?近代富山の部落問題』桂書房20
 01年、p162
・蘭信三『満州移民の歴史社会学』行路社、1994年。
・高橋幸春『絶望の移民史 満州へ送られた「被差別部落」
 の記録』毎日新聞社、1995年。
・『信濃毎日新聞』修練農場開場の新聞記事、昭和13年4
 月5日(御柱祭りの年)他。

▲来週放映予定のこの番組は、八ヶ岳修練農場を取材してい
ます。

NHKスペシャル「村人はこうして満州へ送られた ~国策
『満蒙開拓』71年目の真実~」(仮)
放送時間:2016814() 午後900分~949



うらおもて・やまねこでした。



2016年8月1日月曜日

やまねこ通信361号:滿蒙開拓の歴史が私たちの地域にも!戦争中の修練農場を平和教育の場に

@@@やまねこ通信361号@@@
滿蒙開拓の歴史が私たちの地域にも、戦争中の修練農場を平和教育の場に

滿蒙開拓は、中国東北部の旧満州にだけ、その歴史を刻ん
でいるのだろうか?じつは、身近な所に、滿蒙開拓の歴史、
戦争の歴史が隠れていることが分かりました。

▲高速の中央道諏訪南インターから蓼科方面に向かう新し
い道路、八ヶ岳連峰の西麓を走る八ヶ岳エコーライン。一
番塚で右折すると、道は八ヶ岳登山口のひとつ美濃戸口の
方向に。正面の山並みに向かって進んでゆくと、しゃれた
レストランやカフェが点在しリゾート客で賑わう界隈に。
やがて御柱祭の柱を寝かせる綱置き場。綱置き場から間も
ないところの右手に見える建物。これが八ヶ岳中央農業大
学校です。古びた建物が点在。さらに山に向かって進めば
フェンスの中に牛や豚の姿も。チーズなどの乳製品を販売
する洒落た店舗もあって、いかにも牧場らしいのどかな風
景が広がっています。

この八ヶ岳中央農業大学校の前身が何だったか、知る人は
ほとんどありません。

▲八ヶ岳中央農業大学校、HPによる現在の紹介をまるごと
引用しよう。
 長野県八ヶ岳山麓、諏訪盆地を見下ろす標高1,300mの高原
に拓けた270ha余の大農場、ここが八ヶ岳中央農業実践大学
校です。本校は長い伝統に培われた実践的な学習内容と八
ヶ岳を仰ぎ日本アルプスを望む雄大な自然環境において日本
一の農業大学校です。
昭和13年、疲弊した農村経済の復興にあたる全国的指導者の
養成を目的に本校は設立されました。初代校長は、元農林大
臣の石黒忠篤先生、二代目校長は元高知大学学長の久保佐土
美先生です。卒業生はおおよそ三千名で国内のみならず世界
中で活躍され、一流の農業経営者や農村の指導者はもちろん
のこと、農業団体や政官界などで多くの先輩方が活躍されて
おられます。
1934年(昭和9年) - 農村更生協会設立
1938年(昭和13年) - 八ヶ岳中央修錬農場開場
1946年(昭和21年) - 八ヶ岳高等農林講習所と改称
1949年(昭和24年) - 八ヶ岳経営伝習中央農場と改称
1973年(昭和48年) - 八ヶ岳中央農業実践大学校と改称
1978年(昭和53年) - 専修学校として認可される 
HP記載以上。

▲ここにある「長い伝統に培われた実践的な学習内容」の中
身が何だったのか?これこそ、滿蒙開拓に人々を送り込むた
めの修練施設。それが現在の八ヶ岳中央農業大学校設立の目
的だった。

▲八ヶ岳中央修練農場の歴史。
1938年4月(昭和13年)御柱祭りの年、八ヶ岳中央修練農場
が開場。原村の俎原(まないたばら)の地(現在長野県諏訪
郡原村17217118)に設立された。設立したのは、社団法人
農村更生協会。会長は石黒忠篤であった。三井報恩会、三菱
合資会社、原田積善会より5ヵ年50万円を寄付した。校舎
は諏訪中学の学生寮道志社を移築。

この原村俎原に決定するまで、諏訪地域で幾つかの候補地が
あった。けれど入会権をもつ財産区の反対が強いため、決定
にいたらなかった。この地に注目したのは、石黒の農林省同
僚、小平権一であった。小平権一は茅野市米沢出身。その長
男が数学者の小平邦彦である。石黒忠篤初代場長は土地探し
の段階から参加していた。

▲八ヶ岳中央修練農場は、先に設立された長野県立御牧ヶ原
修練農場の八ヶ岳分場の位置づけだった。滿蒙開拓に向かう
人々が全国から集まり、ここで団体生活を行った。

設立の日の新聞記事を開いてみよう。写真入り2段組の記事
である。

見出し:八ヶ岳修練場 三日入場式挙行 最高峰施設ここに
成る
[上諏訪電話]農林省農村更生協会が全国農民道場の最高峰施
設として建設した八ヶ岳中央農業修練場は41日開場更生協
会長石黒忠篤氏始め本県水川企画課長農林省竹山技師その他
多数来賓を迎えて三日午前九時から入場式を挙行し修練農場
主事として鳥取高等農林学校教授を辞めて赴任した久保佐土
美氏以下藤岡、渡辺、添出各教官及び第一期修練生京都帝大
卒二名三重に鳥取各高等農林卒各三名の八名が列席し久保主
事の開辞君が代合唱裡に国旗掲揚石黒会長の式辞来賓の祝辞
修練生代表京大岡田正路君の宣誓等ののち弥栄を三唱して閉
式した。
 
尚、来る十六日農林省更生部採用の大学専門学校卒業生十
五名が一ヶ月の来場するのに引き続き二十三日には産業組
合中央金庫採用の修練生三十名が一週間の予定で来場し更
に地元諏訪郡玉川、原、泉野三ヶ村中堅青年四十名も八日
から一週間入場して修練を受けるはずであるが、修練生の
日課は午前5時半起床。洗顔、室内外清掃整頓、6時点呼、
10分礼拝、君が代合唱、天皇陛下万歳三唱、弥栄、朝礼・
体操(やまとばたらき)、行進、40分の駆走または作業、
7時朝食。

8時から雨天の場合室内で学科、晴天の場合、当分の間寄宿
舎の整備に農具舎、家畜舎等の建築と開墾行い、昼食に1時
間休むのみで、午後五時半まで続ける。
入浴後午後6時半夕食、8時半まで講話に座禅研究。点呼礼
拝ののち9時消灯の予定。炊事は一切、生徒が交代で行う。

以上は『信濃毎日新聞』昭和1345日付である。
毎朝の君が代合唱、天皇陛下万歳三唱の他に、「やまとばた
らき」という体操をする日課。これは一体、どんなものなん
だろう?
 
▲さらに、八ヶ岳修練農場を利用したとある長期の講習会の
日程を覗いてみよう。満州移住協会・農村更生協会との共同
開催「指導員錬成講習会」1940年(昭和15年)である。この
中に、八ヶ岳修練農場が組み込まれている。

95日長野県小県郡別所村の常楽寺で開講式:講義と経済更
生の模範村小県郡浦里村視察。
912日長野県八ヶ岳修練農場:午前中講義、午後集団農作業。
加藤完治来講し満州移民の必要を説く。分村を計画している
諏訪郡富士見村と下伊那郡泰阜村の視察。
103日満州にわたり各地を視察。1022日帰国し閉校式。

以上のように、八ヶ岳修練農場(現在・八ヶ岳中央農業大学
校)は、滿蒙開拓に志願する人々が、合宿する農林省直結の
訓練施設だった。滿蒙開拓少年義勇軍は、茨城県内原の訓練
施設で3ヶ月を過ごした。滿蒙開拓分村・移民の人々にとって、
八ヶ岳修練農場は同じ役割を果たしたと思われる。

▲戦争の歴史を見直す時が来ている。
LCVの早出伸也ディレクターが制作した『満洲富士見分村・戦
70年後の証言』201611月放映、再放送が、ギャラクシー賞
を受賞した。滿蒙開拓経験ある高齢の方々の語りを丁寧に聞き
とる姿勢に好感が持てた。

実は、NHKが八ヶ岳農場を取材した。どれほど歴史が明らかに
なるだろう?予定されている番組は次の通りである。

NHKスペシャル「村人はこうして満州へ送られた ~国策『満蒙
開拓』71年目の真実~」(仮)
放送時間:2016814() 午後900分~949

▲八ヶ岳農業修練場の歴史は現在ほとんど知られておらず、今
日の農業大学校のHPは、開場の年と旧名を記すのみで滿蒙開拓
についての記載がゼロである。

やまねこたちは、阿智村の滿蒙開拓平和記念館を訪問して、学
校で教わらない戦争の歴史を学んだ。
そこには次のことばが掲げてあった。

未来に向かって

あの時代に問いかけてみます。
なぜ、「満州」へ行ったのですか。
今を生きるあなたに問いかけてみます。
あの時代に生きていたら、どうしますか。

日本と中国双方の人々に
多くの犠牲者を出した
「滿蒙開拓」とはなんだったのでしょうか。

長く人々の心の奥に
閉ざされていた記憶に寄り添い、
向き合いにくい真実に
目を向ける時がきました。

この歴史から何を学ぶのか、
私たちは問われています。
「負の遺産」を「正の遺産」へと
置き換えていくこと、
その英知が私たちに問われています。

歴史に学び、今を見つめ、未来をつくる。
同じ過ちをくりかえさないために。
平和な社会を築くために。

▲滿蒙開拓の歴史は、加害と被害の両面をもっている。農業修練
場の歴史を「負の遺産」として仕舞い込むのでなく、平和教育
に役立つ「正の遺産」に転換することができないだろうか。


八ヶ岳西麓のリゾート地に農業修練場の歴史を振り返る場が誕生
することを願わずにいられない。そうすれば滿蒙開拓の歴史の奥
行が多くの人々の知るところとなるだろう。その日の来ることを、
強く願っている。



うらおもて・やまねこでした。