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2017年2月14日火曜日

やまねこ通信369号:防火訓練と町内会、「だまされていた」人々、伊丹万作「戦争責任者の問題」

@@@やまねこ通信369号@@@
防火訓練と町内会、「だまされていた」人々、伊丹万作「戦争責任者の問題」

目下、石川県の片山津温泉のリゾートホテルに滞在中である。
温泉に逗留する習慣はほとんどないやまねこだが。
12歳当時、富山大空襲に遭遇し、その体験を小説に描いた
「恭子さん」に同行し、子ども時代の話を聴いている。

やまねこより一回り年長。教員を退職後、好奇心に任せて外
国や国内の旅行に精を出した恭子さん。夫の死後は友人を誘
ったりひとりで出かけたりする傍ら、小説を書いている。

戦争中に子ども時代を過ごした。空襲の訓練を町内会が指示
した。回覧板で連絡が来る。17年に父上が死亡。兄がふた
り出征した恭子さんの家族。母上は57歳だった。

空襲の訓練に出るのは19歳の姉さんの役割だった。大阪の
造兵廠でタイピストをしていたが危険になったので富山に戻
りパルプ工場に勤務した。男性が兵隊に取られる中、女たち
は勤労が義務。家で「花嫁修業」などは許されない時代だった。

3つ年上の姉さんは女学校から勤労動員。女学校1年生の恭
子さんも、週一日製薬会社廣貫堂の袋貼りをした。

19歳の姉さんは町内会の指示に従がって防空演習に出る。
ある時、体調がすぐれず休んだ。すると町内会から催促が来た。
訓練に出ることは言うまでもなく、国民の義務だった。

防空壕にはいる訓練は小学生から受けた。運動場の周囲に防
空壕が幾つも造ってあった。穴を堀り木材の柱を組んで上に土
をかぶせる。中で立ち上がることもできた。
授業中にサイレンが鳴ると、そこに駆け込むことになっていた。

どんな訓練だったのだろう。火たたきを一家に一個設置するこ
とが義務だった。2mくらいの縄で作る。それを水に浸して火
を消し止める。それにバケツリレーだった。こんなもので爆弾
に対抗せよというのだ。まことにバカバカしい話で聴くうちに
腹が立ってくる。

これまで映画やテレビで見たり本で読んだりしてきたはずである。
けれど実際にひとりの人物の体験談を聞いて、初めてリアルな
物語として立ち上がる思いがする。
こうして戦争中の話題に耳を傾けながら、時折パソコンを覗き
込むやまねこの日々。

▲孫崎享氏のメルマガが到着する。ほぼ連日メールで送信され
る。本日の孫崎メルマガは興味深い記事をもたらした。
伊丹万作氏のエッセー「戦争責任者の問題」である。

富山の戦争中の暮らし、町内会の防空演習の話に腹を立てるう
ち、誠にタイムリーにも、伊丹万作の「戦争責任者の問題」が
到来する。
町内会、隣組の圧力、学校の圧力、その人々が戦後、「だまさ
れていた」と語ったこと。恭子さんに読んでお聞かせした。

孫崎メルマガは、朝のうちにFacebookに掲載した。やまね
こ通信の読者は必ずしもFacebookの読者ではない。
やまねこ通信への投稿が滞っている。滞りを溶解しなくてはな
らない。

以下は、孫崎享メルマガです。
安倍氏の訪米について、ワシントン・ポストは、「トラン
プ大統領との個人的な結びつきを強めようとする安倍首相の
強い決意は他の国の首脳とは対照的」と報道。米国タイム誌
「日本の首相はトランプ大統領のハートへの道を示した。
Flattery(お世辞、へつらい、おだて)」と報じ、日テレが
「日本側は大成功だったと評価している。一方、アメリ
カ国内では厳しい見方も出ている。アメリカメディアからは、
こんなに大統領におべっかを使う首脳はみたことがない
という声が出ている。」と報じた。

しかし、日本では「大成功」と報じられている。
どうしてだろうかと考える。

その時、理解を助けてくれるのは、伊丹万作氏の「戦争責任
者の問題」である。

一部省略の上、下記に紹介する。
*******************************

多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみ
な口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲で
はおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。

 
だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはる
かに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」
の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけで
はなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間
には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというよう
なことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が
夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと
思う。

 
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の
愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警
防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自
発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわ
かることである。

 
 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、
そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたか
ということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるの
は、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であ
り、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便
局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、
あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的
な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、
あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味
するのであろうか。

 
 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲
を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。

 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数
の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそ
れによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。

 
 だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条
件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よ
く顔を洗い直さなければならぬ。

 
 私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一
つの悪である」ことを主張したいのである。

 
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、
半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。

 
 だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされ
るものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、
戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方
にあるものと考えるほかはないのである。

 
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという
事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだま
されるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的
な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民
全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体
なのである。

 
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も
鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の
基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくそ
の本質を等しくするものである。

 
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を
支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものであ
る。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我
の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の
欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわ
ち被支配階級全体に対する不忠である。

 
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しか
しいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚に
のみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反
省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われる
ときはないであろう。

 
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、
一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる
態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を
感ぜざるを得ない。

 
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそ
らく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに
別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

 
(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)



うらおもて・やまねこでした。



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